東アジア史の視点から-4-
南河内「近つ飛鳥」―上
日本古代文化誕生の地
全浩天
弥生、古墳時代と続くなかで日本の古代文化が生まれるのであるが、その発祥の地である南河内近つ飛鳥≠しばらくぶりに訪ねた。2002年の4月のよく晴れた日であった。長野県松本市の日朝市民会議の一行と共にめざしたのは、朝鮮半島からの渡来の人々の第二の故郷≠ニされる移住民の集中地帯であり、古くから花咲いてきた渡来文化の地である。
南河内、とりわけ大和川と石川の合流地点から南に展開する丘陵地帯である。それらの丘陵地帯には朝鮮からの文化と技術をになって活躍した人々が眠る奥津城があった。注目されるのは玉手山丘陵に連なる玉手山古墳群であり、「近つ飛鳥風土記の丘」として保存されている一須賀古墳群である。玉手山古墳群は4世紀中頃から末期にかけて築かれた前方後円墳を中心にした古い時期の古墳群である。玉手山古墳群は河内飛鳥でも最も古く、ここに眠る人々は百済から渡来した日本最初の古代文化の炎をかかげたリーダーたちであり、その集団であった。 玉手山古墳群の東側の羽曳野市には4世紀末という日本第2位の全長430メートルの応神天皇陵とされる誉田山古墳がある。誉田山古墳の周辺の丸山古墳や野中古墳、アリ山古墳、藤井寺市の長持古墳からは金銅製鞍金具などの馬具、三角板鋲留め式の甲冑、鉄製小札の甲冑、鉄製の馬具や鏃など発見された。特に5世紀中頃から作られた最新式の鋲留め技術によって作られた甲冑は南部朝鮮の大河である洛東江中下流域で栄えた伽耶諸国からの直流であった。 私たちは奈良県側の遠つ飛鳥≠ゥら県境の二上山を越えて日本最初で最古の官道である竹内街道に沿って近つ飛鳥≠ノ向かった。近つ飛鳥風土記の丘、一須賀古墳群を踏査するためである。 私が初めて一須賀古墳群と対面したのは20数年前である。その時の一須賀古墳群は、大半は宅地造成のため破壊され、残された約50基ほどが丘陵線上に累々と連なっていた。その光景は寂寥でいかにも無惨であった。そこでは日本古代文化を創造した百済渡来の人々の栄光の残像を容易に見ることができない。しかし、今、残された一須賀古墳群の様相は大きく変貌した。「近つ飛鳥風土記の丘」として保存されながら史跡公園として一般に開放されたのは喜ばしい。そこには102基の古墳があり、うち40基が保存整備されて観察できる。一須賀古墳群は6世紀中頃から末期にかけて丘陵の尾根部分に群集している10〜15メートルの円墳である。構造は横穴式石室で立派な石室をもつ。有力な渡来家族集団の長たちの墳墓郡である。 遺物は金環の耳輪。奈良・藤の木古墳出土と同種の金銅製の沓、鉄族(やじり)、金銅装単龍環頭大刀柄頭、刀剣。土器は各種の須恵器と土師器であるが、特徴的なのは朝鮮式の甑(蒸し器)と竈である。 「風土記の丘」には現代的建築を誇るかのようにあたりを圧して建てられた「近つ飛鳥博物館」がある。古墳時代の5世紀から飛鳥時代の7世紀に至るまでの、日本古代国家の形成過程と結んで古代文化の形成過程が遺跡物を通して語られている。ここで見逃してならないのは日本の古代国家の形成とともに培われた古代文化には、百済からの人々だけでなく、高句麗、伽耶、新羅から渡来した人々の決定的役割がこめられている。 「風土記の丘」の展望台に立てば大阪平野や南河内の景観はもとより一須賀古墳群の位置とその重要性が分かる。西北には誉田山・応神陵を中心とする古市古墳群が見える。なかでも注目されるのは北東に位置する推古天皇陵。その周辺に敏達天皇陵、用明天皇陵、さらには聖徳太子の磯長陵と叡福寺がある。このように日本古代国家を準備した飛鳥時代の百済系の天皇陵が近接している。(考古学研究者) |