9.11から9.17まで 辺見庸氏の新刊を読む

日本では権力とメディアの境がなくなった

柔らかで永続的な抵抗のテキスト


 9.17以降、日本のメディアはすっかり拉致事件報道一色に塗りつぶされたかのようである。それはまるで昨年の9.11以降の世界がブッシュの主導する反テロ戦争に突入した状況と酷似する。当時、その危うさについて繰り返し警鐘を鳴らしてきた作家辺見庸氏の新著「永遠の不服従のために」(以下「不服従」と略す=毎日新聞)と「新 私たちはどのような時代に生きているのか(以下「時代」と略す=高橋哲哉氏との対談=岩波書店)が相次いで刊行された。

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 「永遠の不服従のために」は「サンデー毎日」の名物コラム「反時代のパンセ」を改題し、刊行されたもの。作家はこのタイトルをこう定義する。「きたるべき(あるいはすでに到来した)戦争の時代を生きる方法とは、断じて強者への服従ではありえない。人間(とその意識)の集団化、服従、沈黙、傍観、無関心(その集積と連なり)こそが、人間固体がときに発現する個別の残虐性より、言葉の真の意味で数十万倍も非人間的であることは、過去のいくつもの戦争と大量殺戮が証明している。…戦争の時代には大いに反逆するにしくはない。…弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、権力の指示にだらだらとどこまでも従わないこと。激越な反逆だけではなく、いわば『だらしのない抵抗』の方法だってあるはずではないか」と。「不服従」はそうした脈絡から編まれた、「柔らかで永続的な抵抗を勧めるテキスト」なのだ。

 本書には収録されていないが、「反時代のパンセ」で辺見氏は、拉致事件報道にひそむナショナリズムの台頭に強い懸念を表す。

 「私は『いま』この国に広がりつつあるナショナルな正義と北朝鮮に対する一律の義憤に、何か危ういものを感じる。『いま』が帯びていなければならない過去が意識的ないし無意識に消去されているからである」(「サンデー毎日」10月13日号)。

 「何よりも拉致事件報道は総じて一次元的で、多分に感情的であり、いずれも深い歴史的観点に欠ける。いや、情緒的である分だけ、深い歴史的観点をもちだすこと、すなわち異論をさしはさむのを許さない危険な雰囲気を醸しているのである」(同10月20日号)。そして、パック・ジャーナリズムが「北朝鮮の暗部を強調しまくり、それに刺激されて好戦的情緒を膨らませているこちら側の危うさをさっぱり分析しない」(同)と指摘する。この連載コラムは今の日本のメディア状況を的確に知るうえで必見である。

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 9.11以降、米軍のアフガニスタン攻撃が始まった際、辺見さんは「私はブッシュの敵である」との立場を鮮明にした。そして、「この汚い報復戦争に反対する」と言い切って、「いまこそ、爆弾の下にいる人間の側に立たなくてはならない」(角川書店刊「単独発言」)と繰り返し語り続けた。

 その立場は新著でもはっきりしている。

 「99年にいったん決壊した戦後民主主義の堤防は、その後いくらかでも修復されるどころか、逆に反動の濁流に完全に呑み込まれつつある。…だが、一つだけどうしても予想も予感もできないことが出来した。いうまでもなく、九・一一の米国中枢同時多発テロであり、それをきっかけにした米国などによるアフガニスタンへの非道きわまりない報復攻撃、ブッシュ政権の狂気じみた軍事路線の拡大といった事態である」(「時代」)。

 その結果、日本列島に反テロ戦争、戦争態勢の流れが急速に広がった。米軍の意のままに自衛隊を地球規模の戦争に参戦させるテロ特措法を成立させ、早々と自衛艦隊をインド洋に派遣した。有事法制やメディアの規制を狙った法案などの動きも津々浦々まで広がった。

 こうした社会の様相をかつて辺見氏は「鵺的全体主義」と喝破したが、それはまさに「権力がメディア化する一方で、メディアも権力化し、こん然一体、境がなくなってしまった」(東京新聞とのインタビューで)状況を生んだのだ。

 今回の著書でもメディアの翼賛体制に厳しい批判の目を向けながら、「マスメディアという名前の装置、アカデミズムという名前の陥穽が、もっともらしい装いで、あるべき危機意識を無と化すべく働いているのだ」(「時代」)と警告している。  辺見氏は自ら通信社にいた経験もあり、しばしば「優しいファシズムをメディアは見抜け」と叱咤する。99年以降の許し難い状況は「歴史が激しく痙攣する現場」だったとして「私はいちいち呆然とし、狼狽し、憤りもし、それをあえてそのままに文章にした」(「不服従」)と率直に述べている。この人間的なしなやかな感性と精神こそ「戦争の時代」にしぶとく抵抗する武器であることを認識させられた。(朴日粉記者)

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