投書

拉致報道に隠された日本社会の問題点


 8月からの、日本メディアによる朝・日関係の報道を見ていて、疑問に思わざるを得ないことがある。日本人は、在日朝鮮人がこの国で、何の束縛も受けず、幸せに暮らしていると思っているのか、という疑問だ。小泉首相の訪朝が決まってこのかた、朝・日間の最大の懸案は拉致問題であるとの報道ばかりがなされ、さも日本側は何の問題も抱えていないかのような印象を与えている。

 朝鮮植民地統治に対する謝罪と補償の問題は、「経済援助」という言葉にすり替えられ、在日朝鮮人に対する実質的な差別政策とそれらへの無為無策は報道すらされていない。

 21世紀にもなって、「先進国(私はこの言葉は大嫌いだが)」と呼ばれる国の中で、異民族が居住国の支配民族の姓名を名乗らなければ仕事も出来ず、また民族教育が破綻するよう、「不奨励」政策をとっている国がどこにあろうか? しかも日本政府によるこの在日朝鮮人民族教育への抑圧は、1930年代の「朝鮮人夜学」に対する弾圧から連綿と引き継がれてきたものである。

 日本政府は敗戦後半世紀以上、在日朝鮮人(他の外国人も含めた)に対する社会的差別を是正するための具体的な政策をとってこなかった。

 「言論の自由に抵触する」との言葉を楯に、日本政府と旧体制の生き残りは、日本社会の差別構造を温存し、利用してきた。

 在日朝鮮人がこれまで獲得してきた諸権利は、わが同胞たちと心ある日本人、その他外国人が共に闘って得たものであり、日本政府の役人が民情視察に来て「施してくれた」ものでは決してない。

 日本の「民族教育不奨励政策」が功を奏し、民族教育は今、危機を迎えている。

 日本学校出身者で、朝鮮人・韓国人のアイデンティティーに目覚めた人の数は、朝鮮学校出身者が思っているほど多くはないのである。

 木を見るのはたやすいが、森を見るのは難しい。同じく差別発言はすぐ見え、聞こえるものだが、社会の差別構造といったあまりにも巨大なものは、非常に見えにくく、認識しがたいものである。

 日本のメディアはしょせん、日本人のために存在し、日本人の主張を代弁するに過ぎず、朝鮮人のためにあるのでも、朝鮮人の主張を進んで代弁してくれるわけでもない。

 われわれ在日朝鮮人は、自らの目で見聞きし、考え、そして主張し、これからもわれわれの生活のため、教育のため、心ある日本人や在外外国人たちと共に闘わねばならないと思う。(宋実成 25 フリーター)

日本語版TOPページ