反基地闘争の町・梅香里を訪ねて
竹見智恵子
1週間の予定で訪れた「韓国」取材旅行の最後は、気のおけない友人たちとの天安市「望郷の丘」にある金学順さんの墓参りと、そこから1時間ほどの距離にある梅香里訪問。
金学順さんは、「韓国」でいちばん最初に日本軍「慰安婦」であったと名乗り出たひと。女性差別が色濃いアジアでは、自分が元「慰安婦」であり、性的被害者だったと認めることはたいへん勇気がいる。それは戦争犯罪や植民地支配を告発することだし、ひいては日常的な男性優位社会に人びとの目を向けさせることでもある。だから名乗り出るには、称賛の一方で、嵐のような非難を覚悟しなければならない。そこをあえて金学順さんは名乗り出た。その勇気ある行動に、アジアだけでなく、世界中の女性たちがどれだけ力づけられたことか。わたしもまた金学順さんから、どんな状況下でも、人間として尊厳を持って生きることのたいせつさを教えられたひとりだ。 金学順さんの遺志継ぐ仲間たち 「望郷の丘」に向かったわたしたち一行は女ばかり8人。日本から同行した朝鮮籍の友人で、翻訳家の卞記子さん。ふたりの共通の友人で、ソウルに住む靖国合祀取り消し裁判原告の李熈子さんと、日本への留学後に「平和市民連帯」を設立し、歴史のゆがみを正す運動をしている姜済淑さん。みんな「慰安婦」問題や平和運動を通して出会った友人だ。そんなわたしたちを、親切にクルマで案内の労をとってくれた詩人の金パダさんと出版関係の若い女性がふたり。それに今回、何といっても特別うれしかったのは、金学順さんの親友だった黄錦周ハルモニが同行されたこと。
黄錦周さんは戦争中、やはり日本軍「慰安婦」として辛い体験をした。戦後は痛む体で「ハルモニ食堂」を切り盛りしながら朝鮮戦争の孤児を育てたりして、80歳の今日まで生き抜いてきた。 「望郷の丘」に着くと、わたしたちはみんなで金学順さんのお墓を囲んで座り、金学順さんの好きだった牛乳でノドを潤した。金学順さんは、やわらかい日差しのように、やさしく遠来のわたしたちを迎えてくれた。 黄錦周ハルモニは、自分のお墓を金学順さんの隣に買ってある。どちらが先にあの世に行っても、身寄りのない同士、隣り合って眠ろうと約束したのだそうだ。 金学順さんのお墓の斜め後には、李熈子さんのアボジの墓もある。熈子さんは、尊敬する金学順さんのお墓参りと、自分のアボジのお墓参りがいっしょにできれば都合がいいと至近の場所を選んだ。ただし、墓石の表面はノッペリしていっさい文字を刻んでいない。父親を靖国神社から取り戻すまでは、このままノッペリさせておくという。 「なぜ身内に断らず、勝手にアボジを靖国に祀ったのか。日本政府は加害の責任をとらないまま、死者までも自分の思うままにしようとする」と憤る李熈子さん。彼女の憤りはもっともで、わたしは最後まで彼女の闘いに寄り添うつもりである。 日に400回も米軍の爆撃演習 金学順さんの墓参りが終わり、クルマは梅香里へ。姜済淑さんのアレンジで米軍基地反対闘争のリーダー全晩奎さんにお会いすることができ、被害の実態をうかがった。日に400回も繰り返される爆撃演習のすさまじさ。長年爆撃の標的になった沖の島はすり減り、変形してしまった。騒音による精神障害が増え、それが原因で亡くなったひとも。演習中は立ち入り禁止で漁業が成り立たないそうだ。
「これじゃ戦争中と同じじゃないか。ここはわしらの国だ。わしらにだって人権はある。韓国政府に言って、さっさとアメリカ軍を追い出してもらえ!」 突然、黄錦周ハルモニが怒り出した。 わたしは全さんのお話を聞きながら、沖縄やフィリピンのことを思い出していた。つい先日、フィリピン南部バシラン島での米比合同演習の取材から戻ったばかりのわたしには、基地周辺で暮らす人びとの不安と恐怖が痛いほどわかる。一方で経済効果に引かれ、基地周辺に吸い寄せられる人びと。買春や兵士の暴力で犠牲になる女性や子ども。 「若い世代がまた慰安婦にされたら、たまったものじゃない。米軍だろうと、なんだろうと、軍隊はいらない!」 黄錦周ハルモニの怒りは、わたしたち全員の怒りだ。基地さえなければ魚介も豊かで平和な海辺の村・梅香里。一日も早く、爆音のない村に戻ることを願いつつ、全晩奎さんに別れを告げ、夕陽の梅香里を後にした。(ジャーナリスト) |