和解、団合の現場-北から南から-
官民一体の交流・協力
江原道〈上〉
歴史的な6.15北南共同宣言の発表から2年余。民族の宿願である統一に向け、宣言に基づいて確実に和解・協力事業が進展するなか、本社取材団は10月下旬、日本から直接、南に入りソウル、江原道一帯を取材する機会に恵まれた。むろん総聯のマスコミがイベントなどの同行ではなく、純粋に取材目的で南を訪れたことは今回が初めての事である。6.15宣言発表後の南社会がどのように変化し、市民たちの意識、志向はどうなのか―。以下、4回にわたってレポートする。
軍事境界線に隣接
ソウルはすでに初冬の装いだった。ポプラやイチョウなど街路樹はすでに半分以上も葉を落とし、25日以降は最低気温が氷点下を記録。雪岳山などからは今年初めての冠雪の便りが届いた。 冬の到来が確実に迫るなか、ソウル到着後、4日目の24日から2日間の予定で江原道取材へと車を走らせた。 江原道を取材の対象に選んだのは、@北と境界を接する地域のなかで対北交流・協力事業が官民を上げて行われているという点、さらにはA9月18日に着工式が行われた東海線鉄道・道路連結の現場であり、現代峨山の金剛山観光事業の観光船・雪峰号が発着する地(束草市)であること、そしてB朝鮮戦争(50年6月)前までは北の地で停戦(53年7月)後、南に編入された経緯から離散家族が多いという点などを考えたからだ。 元来、江原道は保守的な地域だと、ソウルで多くの人から聞かされた。産業は農・漁業が中心。日本の感覚からしてもなるほどと、「納得」してしまう。その地域的な特性の上に、軍事境界線に隣接、離散家族が多いという事情が加わる。 にもかかわらず、対北交流・協力事業は6.15宣言発表に先立つ98年から計画されてきた。南における保守とは当然、反共意識に裏付けられたものだと単純に思っていただけに、このコントラストは正直、驚きだった。 95%の松に効果 対北交流・協力事業は@世界に名だたる金剛山の松を松食い虫から防ぎ蘇らせることA朝鮮戦争後、東海沖合いから姿を消してしまった鮭を呼び戻すための南江などでの卵の孵化・放流Bジャガイモの種芋(原種)の栽培―の3つの柱からなる。
@とAはすでに具体的な成果を生んでいる。昨年6月に薬を散布し10月にその効果を確認した松食い虫の除去事業は、薬を散布した九竜淵、三日浦一帯の95%に効果が見られたという。金剛山の松を守ることは、隣接する南の雪岳山の松を保護することにもつながる。 一方Aの方は、2000年12月に合意。翌年4月に50万匹の稚魚が高城郡南江下流、安辺郡ナムデ川上流で放流され、一部遡上した事実も確認されたという。来月には、安辺郡果坪里に年間500万匹規模の孵化場が完成する予定だ。 これらの事業に当初から関わってきた鄭聖憲さん(韓国DNZ平和生命村推進委員会共同代表・南北江原道協力協会理事長)。道都・春川市の事務所で、なぜ対北交流・協力なのか、について次のように語る。 「答えは簡単だ。南も北も同族、わが民族だからだ。同じ民族を助けるのに、政治的に妥当なのかどうか、と無駄な論議をする事よりも、いま何が必要なのか、何を求めているのか、そのことを調査、相手の要望を聞いてすぐに出来ることから始めることだ。政治的なスローガンを叫ぶよりも大事な事だと思う」 そしてまず取り組んだのが、前述した3つの事業だった。 鮭漁で発言権を 「この時に考えたのは、南北相互の信頼を築いていくための事業、つぎに実質的に助けとなる事、最後に統一後、ひとつになった江原道の利益になる事をやろうということだった」
確かに、3つの事業はこれにピタリと当てはまる。 「鮭の孵化・放流は今後、5000万ドル程度の現金収入を北江原道にもたらす。成長して帰ってきた鮭を捕まえてどんどん輸出をすれば良い。また、東海の鮭漁と関連して、南北が共同で力を合わせていけば、孵化・放流の実績を盾に日本に対する発言権を強化することもできる。さらにはカナダ、ロシア、日本などが鮭資源の保護、増殖などの地域国際機構を作っているが、この機構委員構成国になれば、ベーリング海にも堂々と出漁することもできるようになる」 鄭さんは高麗大生だった60年代初、学生運動に参加し逮捕・投獄された体験を持つ。その後、在野で農民運動(カトリック農民会)に携わり、自身、今も早朝から夜遅くまで畑に出て野良に精を出す農民でもある。 だから、「江原道の事はわれわれが一番よく知っている」と、歯に衣を着せぬ言葉が次から次へと飛び出す。 委員会と企画団 鄭さんの語る対北交流・協力事業の背景には、南の社会で唯一、江原道が官民一丸となってこの事業に取り組んでいるという実情がある。 6.15共同宣言発表に先立つこと2年、98年に道議員、企業、農業協同組合代表、市民団体、女性代表、大学教授ら地域の主要な階層を網羅した36人のオピニオンリーダーが参加した南北江原道交流協力委員会が発足。同時に道庁に南北交流・協力課、交流・協力基金が設置された。 そして、2000年2月から本格的な活動を開始した。同年6月の6.15共同宣言発表が追い風になったことはいうまでもない。 委員会の傘下に、実際に活動する交流・協力企画団が設けられているが、鄭さんは同企画団の団長でもあり、日常的には鄭さんと道庁の交流・協力課長が実務を担当している。 「今年6月、西海交戦事件が起き社会全体に沈滞ムードが覆っていた時に、企画団は緊急に会議を開いて事件をどう見るのか、今後の交流・協力事業をどうするのか、腹蔵なく見解を述べ合い意見交換した。結果、全員が出した答えは、交流・協力事業は継続すべきだった」と鄭さん。 このように、江原道ではまさに道上げての対北交流・協力事業の形が整えられているのだ。 道民70%が支持 では、道民たちは交流・協力事業をどのように評価しているのか。この問いに対し、鄭さんの口からは「70%が支持している」と、自信に溢れた答えが返ってきた。 事業には膨大な資金が必要だが、地域の銀行カードを使うたびに、その手数料の中から1%が自動的に基金に回されるシステムが出来あがっているという。 今後の課題として鄭さんは、道民全体が@北江原道についての知識、情報を共有していくA対北協力事業の意思を合意させ、統一していくことB物的土台をさらに強固なものにしていくことだ―と語った。 この江原道のケースに触発され、現在、京畿道で同様の事業の実施を企画、計画中だともいう。 取材は途中、場所を移して夕食をはさみ約3時間、夜10時近くまで続いた。 その間、鄭さんの話は本題以外に、朝鮮民族の農業はどうあるべきか、古来からの麦、ヒエ、粟など原種をそのまま生かして民族の農業再生をする道が全体の繁栄につながるとする持論の披露から、統一祖国は環境、平和大国になるべきだと、その熱弁は止まることがなかった。 全住民が離散家族 鄭さんへの取材に先立ち24日、金剛山までわずか52キロ、軍事境界線に接する楊口郡を訪れた。 楊口郡は、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争まで朝鮮民主主義人民共和国の行政区域だった。53年7月の停戦協定締結後、水入面を除く地域が南に編入され、その結果、郡は南北に分断されてしまった。現在は7つの邑4つの面で構成、南ではもっとも小さな郡である。
この日、ソウル出発後の予定が大幅にずれ込んだうえに、不慣れな土地で道を大回りしたこともあって取材場所の楊口郡議会庁舎に到着したのは、約束時間を4時間余りもオーバーした午後8時過ぎだった。しかし、待ち構えていた呉興九議長、金泰鎮議員は、嫌な顔一つ見せずに遠来の客を温かく迎えてくれた。 まず、郡の現状について呉議長が説明してくれた。 「郡全体の人口は約2万4000人で、ほとんどが農業に従事している。ところが居住者は倍の約4万5000人になる。この意味がわかりますか」。 顔を見合わせる取材団に、横から金議員が口を挟む。「つまり、郡の人口から引いた残りの2万1000人は軍人ということだ。軍事境界線に隣接しているだけに軍の基地、民間人立ち入り禁止地域(民間人通行制限線)が点在する。非常に多い」「基地、民統線が点在するということは、それだけ住民の生活に制約があるということだ」。 すると、呉議長が堰を切ったように語り始めた。 「この郡の2万4000人の住民は全員が離散家族だ。何を隠そう私も6人の異母兄弟が北にいる。しかし、これまで南北離散家族の対面事業に参加できたのはただ1人しかいない」 待ちわびた6.15 朝鮮戦争の勃発とともに、戦火から逃れるために多くの郡の住民たちが北へと避難した。そして停戦。呉議長は続ける。 「当時、南北を分けていた38度線は厳格に遮断されていたわけではない。野山に鉄条網が敷かれていただけなので、みんなそれを乗り越えて自由に南北を行き来しながら生活をしていた。日常的な光景だった。それが停戦後、軍事境界線によって一切が不可能になった」 20年前に亡くなった呉議長のアボジは妻、6人の子どもたちと生き別れた。生死不明のまま再婚。呉議長ら2人の子どもをもうけた。 「亡くなる直前まで本妻、子どもたちの安否を気にかけていた。家族離散の痛みが寿命を縮めたのかも知れない。アボジが亡くなった後、財産相続の手続きをしようとしたが、そのためには南の法律では北にいる本妻、そしてその子どもたち全員の同意が必要だった。どのようにすれば彼らの同意を得ることが可能なのか。そのために残されたオモニ、私たち兄弟は苦労した」 金議員も語る。 「議長の例に見られるように、戦争当時、夫婦が離散し、その後再婚したケースが多々ある。だからこの郡には、兄弟の姓が違う人が多い。そのうえ、離散した肉親たちの生死が不明なので、それぞれの誕生日の朝にチェサ(祭祀)を行ってきた」 離散家族の悲惨さは、肉親が南北に分かれて住んでいるという悲しさだけに止まらなかった。 かつての厳しい南北対決の時代、南内部からも彼らには厳しい目がむけられ、郡から一歩も外に出ることは出来なかった。 そうした呉議長らにとって、6.15共同宣言の発表は待ちわびたものだった。その報に接した時、すぐに肉親たちの顔が浮かんだという。むろん「大歓迎だった」。 すぐさま、内金剛までの道路の拡張・舗装、統一農場造成、農業分野を柱とした北の隣接郡との交流をめざし、郡議会の計画・構想を練り上げた。「すでに鉄原郡では交流が具体化し、耕運機などの機具を北に送ったと聞いている」「風の便りに、北の准陽郡にこの地域に住んでいた人が多く残っていると聞いた。ぜひ交流を急ぎたい」(呉議長)。 祖国分断の悲痛な一断面が凝縮されているような楊口郡。にもかかわらず、その悲痛さを胸の奥深く止めながら、南北交流、和解、統一への固い決意を披露する呉議長らの話は食事を挟み続いた。(続く=本社取材団。次号からは月、金曜日号に掲載) |