「はだしのゲン」と私
金松伊
息子に勧められ
ゲンとの出会いは長男が初級学校2年の時だから、かれこれ20年前になる。当時、嫌々通っていた学童保育所から借りて来たのがきっかけだ。漫画は読むのに時間がかかるので私には苦手だった。まして教師として必読書を何冊も抱え、時間との闘いを常時強いられている状態では、なかなか手が出ない。わが家には親子間で良書を紹介し合う約束があったから、恐らく息子ははせる思いで持って来たはず。ところが、オンマは一向に読んでくれない。1日も早く感想を聞きたい気持ちが「オンマ、読めへんかったら人間あかんで」とまで言わせた。 その日の晩、6冊を一気に読み終えた。朝、パンパンに腫れた目で、「コマプタ」と礼を言い、下校後書店に買いに行くよう指示した。ハッキョに持って行き、回し読みさせるためだ。 息子2人とゲンの世界にのめり込んだ。絵と共に語る原爆地獄、戦争の本質と罪過、天皇制が抱える問題点、踏まれても踏まれても未来を切り開くため、果敢に立ち上がるゲンの麦のような粘り強さ。そこから生まれる苦境打破の妙案、原爆投下後、露骨に現れる米国の本質、愚かな人間の本音、はびこる社会悪等々にやられながらも負ける事を知らないゲンの姿に、痛快感を覚える。熱烈なゲンのファンになった。 言葉との苦闘 90年代半ば、「新しい世代」の書評を書いていて、「ゲン自伝」に出会った。数カ国語に訳された世界的ベストセラーなのに、言語として世界的に評価が高いハングルで訳されていない。これは解せない。即、出版社に電話を入れ著者との通話がかなった。朝鮮人とは格別な思いがあって、訳書は最初にハングルで出したく、訳者を当たって見たが、引き受けてくれる人がいなかったとの事。では私がやりましょうとなった。 願わくば、朝鮮半島南北同時に出したかった。だが共和国では一般漫画はいまだ普及しておらず、やむを得ず南だけの出版となった。 祖国が分断され半世紀を越した。南北間に生じた相違点も多い。その中でも言葉は生き物ゆえ、その違いたるや深刻だ。私が使うのは朝鮮語、出版は「韓国語」になる。そこで南の留学生と組まざるを得ない。苦しい闘いが始まった。朝鮮語は現在もさほど変化がなく(社会主義制度下で増えた語彙の違いはある)、固有語も健在だが、日本が抱えているような問題点を南もやはり抱えているように思う。これは私の論になるが、省略語が甚だしく文法的に語尾の使い方や接続詞の使用法が逸脱しており、死語になった固有語や日本語的な表現が多すぎる。留学生は私に「言葉が違う」と言い(20、30年前の書物を比較するに相違点は精々分かち書き程度のように思うのだが)、私は彼に「乱れすぎ」と指摘する。余りの衝突に彼は幾度か降りると言った。だが苦しさを乗り越え出版に至らしめたのは「祖国統一」のスローガンだった。 翻訳しながら、統一のため何が出来るか熱っぽく語り合った。80年の光州抗争を「5.18」の歌と共に語り合った。そしてこの8月、全巻出版を成し遂げた。これから私はゲンとこうして歩いて行く。(近畿大学非常勤講師) |