両親に学んだ自分の力で考える大切さ

朝鮮学校で心の豊かさと差別と闘う勇気を得た

朴慶姫


 アンニョンハシムニカ。私の名前は朴慶姫です。コリアン3世として日本で生まれ、幼稚園、小、中、高と朝鮮学校に通い、現在フェリス女学院大学国際交流学部の1年です。私の家族は5人で、コリアン2世である両親、そして兄と弟がいます。「娘が生まれたら朝鮮学校へ」。まだ私がお腹の中にいた頃、母が父にこう言ったそうです。朝鮮学校とは、日本の植民地からの解放後、日本で生きていくことを決断したコリアン1世の方々が自分たちの力で建ててくれ、それを引き継いで2世の方々が日本でコリアンとして生きていくためのあらゆる権利を勝ち取ってくれ、今日この日もなお民族教育の場として存在している学校です。

 私の両親は2人とも韓国籍を持ったコリアンで、母は朝鮮学校出身、父は日本学校の出身です。私の祖父母は朝鮮半島が日本の植民地として支配されていた時代に、生活のために日本に渡ってきました。両親は兄を日本の幼稚園へ通わせていました。当時日本でコリアンとして生きていくことの大変さ、学生時代、朝鮮学校への差別を肌で感じていた母はこれから一生日本で暮らしていくのだから、日本学校に通わせた方が子供のためになるのでは?、という父の意見を退けてまで兄を朝鮮の幼稚園へ通わせることはできなかったのです。しかし、母は少なくとも娘には、もし娘が生まれたら、朝鮮学校で民族教育を受けさせたいと思っていたそうです。あいにく医師の診断では男の子。しかしその医師の診断に反して生まれたのが私、女の子でした。

 私が生まれたとき、母はまず驚き涙し、そしてこの子は絶対に朝鮮学校へ通わせようと決意したそうです。そうして私は幼い頃から朝鮮学校で民族教育を受けることになりました。父にとって、民族教育の実態を目のあたりにするのは初めてのことでした。小学校からは日本学校に入れたら?、と初めは口にしていたそうですが、親として朝鮮学校と関わりを持ち、日毎に母国語を覚えていく幼い私を見ながら父の心も徐々に子供に民族教育を受けさせたいという気持ちに変わっていったようでした。そんな日常の中で兄と同じく日本の幼稚園へ通っていた弟も、父の朝鮮学校に行かせてもいいよという一言から朝鮮学校へと入学することになり、現在は朝鮮高校の1年生です。

 一方、私の兄は家族に黙って母国語を勉強していました。日本学校に通ったため、兄弟の中で自分だけが母国語を話せないという疎外感と、自分はコリアンであるという自覚が兄をそうさせたと思う一方、私は家族が民族教育へと向かっていく姿が、兄に影響を及ぼしたとも思っています。そして兄は兄なりに民族のこと、コリアンである自分自身について考えを深めていたのだと感じました。私自身も家族についてすごく悩んだ時期がありました。どうして兄は日本学校で、私と弟は朝鮮学校なのか、どっちに通わせたほうがいいか、子供で試してみたんでしょう?、と私は反抗期だったせいもあって、両親を激しく責めました。そうして、母から前に述べたような事情があったことを初めて聞かされました。そして私は父と母が互いに意見は違っても、わたしたち兄弟にコリアンとしてしっかり生きていってほしいと一番に願っていてくれたことを知りました。それはお金持ちや偉い人になるといったことではなく、たとえ日本という国で外国人であってもしっかり自分を持って生きてほしいということでした。それは決して教育と呼べるレベルではないだろうけど、父と母は私に民族のこと、祖国のこと、そして生まれ育った日本のことについて自分の力で考える大切さを言葉ではなく、自らの姿を通して私たち兄弟に示してくれました。そんな経験によって私は自分自身のことを考え、日本でコリアンとして自分を偽ることなく生きていこうと決意しました。また私は、このような家庭環境は少なからず私の家庭に限ったことではないと思います。むしろこれこそが今の日本に住むコリアン家庭の一般的な現状だと私は思います。

 日本学校に通うこと、朝鮮学校に通うことのどちらが子供の将来にとっていいことなのか、まだ私にはわかりません。ただひとつ、私は今、日本において民族教育の場である朝鮮学校で自国の言葉、歴史について堂々と学べたことをとても誇らしく思っています。そして私自身は子供にとっての民族教育は不可欠なものだと思います。私は母があれほど娘である私を朝鮮学校へ通わせたがったのは、朝鮮学校に対する差別という厳しい現状より民族教育を受けて育ったという経験の方がはるかに母の心を豊かにし、日本で外国人として暮らすうえでたくさんの勇気を与えていたからだと思います。弟もそうですが、私は民族教育を受けた15年間、一度も学校を休むことがありませんでした。正直に言うと、母が休むことを許さなかったのです。15年の間休みたいと思ったこともありますが、今考えると、それは母の学校に対する、民族教育に対する思いそのものだったのでしょう。しかしいまだに日本の政府から学校として正式に認められていないというのが悲しい現状です。私は日本に住んでいる人たちの中で朝鮮学校について知らない人がほとんどだと思います。また、朝鮮学校について正しく理解されていないと思います。私は朝鮮学校について多くの人に知ってもらい、正しく認識してほしいと思います。現在、自国と日本の関係が思わしくない中、それは大変難しいことであり、受け入れられないことであるかもしれませんが、私が生まれ育った日本と祖国が一日でも早く近くて遠い国から近くて友好的な国へとなれるように、私は日本に住むコリアンとして日本の方々や日本に住む外国人の方々とのふれあいを大切にしていきたいと思います。そして私の弟を始めとする後輩たち、将来的には私の子供にあたるであろう次の世代のためにも民族教育の場である朝鮮学校で幸せに学ぶことのできる環境を築いてゆきたいと思います。私はこれからコリアン3世として民族教育を担っていく存在になれるよう努力していきます。最後に、今日私にこのような機会を与えてくれた皆様に感謝します。(フェリス女学院大1年生)

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 この原稿は1日、神奈川県横浜市の県立地球市民かながわプラザで開かれた「あーすフェスタかながわ日本語スピーチフォーラム」で発表されたもの。

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