くらしの周辺

「影をなくした男」


 気がついたら年末。そろそろ部屋の大掃除でもと思い、乱雑とした本棚周辺を片づけながら、ふと1冊の小説を手に取った。「影をなくした男」(岩波文庫)。主人公は自分の影を金銀と引き換えに売り払い巨万の富を得るが、影のない人間として社会的に蔑視(無視)され、人としての存在までをも否定される。後に影の大切さを実感し、必死に取り戻そうと試みるが、時すでにかなわず…といった内容。大学の頃、この本をまわし読み、物語の中の「影」とはいったい何なのかについて友人らと語り合ったものだ。

 議論の詳細は記憶にないが、そのとき「影」を「祖国」「民族」と理解したように思う。影を無くした植民地時代から在日朝鮮人は、あらん限りの差別と迫害、蔑視の中で被差別者として生きてきた。特に一目で「影」のちがいがわからない日本では、われわれ自身本質的な部分を忘れぬよう、差別とたたかってきたように思う。今でも生活の中に目立たぬ差別は存在するが、われわれは多くの権利を勝ち取り、確かに差別は少なくなった。

 在日朝鮮人の場合、歴史的経緯から被差別者としての意識は非常に成熟していると言える。しかし、今日、逆に差別する側の自分についても考える必要があるのではないだろうか? 例えば身体・知的障害者に対して、またはロシアやイラン、アイヌ人など、日本国内における自分以外のマイノリティー(少数)に対してどういう意識を持っているか? 過去をふまえて、差別を知る者だけに分かり得る意識と行動が求められるだろう。ふと手に取った1冊のために、遅々としてわが家の片づけは進まないのであった…。
(李紅培・朝青員)

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