ウリ民族の姓氏−その由来と現在(38)

仁同張氏の始祖は高麗功臣

種類と由来(25)

朴春日


 張氏は著姓の上位にあって、246の本貫を数える。李朝期には「20大姓」の後半に位置。最近の南の調査では「10大姓」の9位にランクされた。

 ところで一部の古文献や族譜は、張氏の祖先を古代中国・黄帝の9男の後孫だとしている。黄帝は伝説上の帝王だが、その9男とは誰か、「史記」にも名が見えない。

 確かに、中国には張姓が多く、かつては「張・王・李・趙・劉、天下に満つ」といわれ、張氏が首位を占めたこともあった。いまでも李、王についで3位である。

 しかし、「中国の張氏と、わが国の張氏は、その系統が全然異なる」(前出、゙熙勝氏)のであって、己のルーツを他に求めるのは、やはり事大病でしかない。

 事実、わが国の張氏の中でもっとも代表的な仁同張氏の始祖は、高麗時代の大功臣であった張金用であり、他の張氏の本貫もそれぞれ明確である。

 張氏の由来を考えるうえで、権文海編さんの「大東韵(ウム)王」は興味を引く。それによると、張氏の元の姓は「長」であって、この一族はきわめて弓術に優れていたことから、やがて長の字に「弓」偏をつけ、「張」氏を名乗るようになったという。

 木川張氏の由来もおもしろい。始祖は百済遺民の張克敏で、彼らは高麗建国後も反発を繰り返したため、太祖・王建が懲らしめの意味で「★(ケモノ偏に章、チャン)」姓をつけたという。★(ケモノ偏に章)はノロのこと。困り果てた彼らは、その★(ケモノ偏に章)を同じ音の張に変えたというのである。

 興徳張氏の始祖は張延祐。その父・張儒は内紛で中国へ逃れ、高麗成立後に帰国して要職についた。また安東張氏と蔚珍張氏は、自らの祖先が高麗初期に中国から移住して帰化したという。帰化氏族については後述する。

 そのほか主な張氏の本貫と始祖は、徳水・張伯昌、永同・張★(「抗」の手偏をサンズイにしたもの)、昌寧・張令規、尚質・張得球、鎮川・張松、求礼・張岳、海豊・張孟卿、結城・張甲である。

 歴史に名を刻んだ張氏も多い。わけても後期新羅の大貿易商であり、海将であった張保皐(チャン・ポゴ―宝高)は、莞島の清海鎮で1万余の水軍と数百隻の船団を率い、凶悪な奴隷商や海賊から同胞たちを守り抜いた。

 彼はまた、唐や日本など東アジアの海上貿易を独占し、巨万の富を築いたばかりでなく、日本の慈覚大師円仁や遣唐使らを助けるなど、善隣友好にも尽くしている。

 また李朝末、「天才画家」とうたわれた張承業は、孤児、文盲、下男という境遇から画家を志し、安堅、金弘道と並んで「李朝画壇の3巨匠」と評されるに至った。

 豪放で無類の愛酒家であった彼は、時の高宗が王宮に迎えて屏風絵を描くよう命じたが、夜な夜な酒幕に行って痛飲し、結局、絵は描かずに放浪の旅に出ている。

 さらに、高麗建国の功臣・張吉、李朝の学者・張維、そして韓末の言論人・張志淵は有名である。

 次回は韓氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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