ウリ民族の姓氏−その由来と現在(40)

「三学士」の一人輩出した海州呉氏

種類と由来(27)

朴春日


 呉氏は著姓に属し、「20大姓」の中程に位置している。本貫は165。人口数の多い氏族である。

 代表的な本貫は、海州・同福・宝城・咸興・高敞(コチャン)・荳原・羅州・咸陽・延日だが、ここに済州道が入らないのをいぶかる人もいよう。

 確かに在日同胞を見ても、済州道に故郷を持つ呉氏は多い。その点について朝鮮の゙熙勝博士は、「海州・宝城・羅州など西海岸一帯と、海南・紗羅付近に住んだ呉氏がさまざまな理由から済州道へ移住し、その後孫が繁栄して今日の呉氏になったと考えられる」と述べている。

 問題は呉氏の由来である。海州呉氏の族譜によると、その始祖は高麗の成宗時代、宋の国から来た呉仁裕という学者で、後に文・武の功臣として知られた呉延寵(オ・ヨンチョン)は、彼の7代孫に当たるという。

 しかし、「高麗史」列伝中の彼の伝記には、それが全然記されておらず、他の史書にも、彼が使臣として宋へ派遣されたという記録しか残されていない。

 したがって、その始祖を「宋の学者」としたのは後世の付会で、これも事大病のなせる業といえよう。

 わが国の史料によると、呉氏はそれよりも早い時期、すでに歴史の舞台に登場している。

 たとえば927年、渤海の工部卿(大臣格)に呉興という人物がいて、太子の大光顕とともに高麗へ移ったことが記録されており、「東史綱目」には、後百済の王であった甄萱(キョンヒン)に呉淡という臣下がいて、935年、羅州へ随行したとある。

 また、高麗の太祖・王建のもう一人の妃・荘和王后の父は呉多燐で、彼らが先祖代々、羅州、木浦一帯で暮らしてきた記録も残っている。

 このように呉氏はすでに三国時代に活躍しており、わけても海州呉氏は、秀れた人材を輩出している。

 李朝の忠臣・呉応鼎(オ・ウンジョン)は、壬辰倭乱時の勇将であり、当代の「三学士」と讃えられた1人、呉道一も酒豪の逸話を残した人物である。そして画家、書芸家として名を残した呉泰雲、呉慶錫、呉慶林、呉慶然らもいる。

 高敞呉氏の始祖は呉学麟で、彼は高麗中期の著名な学者であったが、その孫・呉世功、呉世文、呉世才は詩文の俊英であった。また咸陽呉氏の呉★(王偏に比)と呉益昌、石城呉氏の呉連は、壬辰倭乱のとき勇名をとどろかせている。

 朝・日親善、交流の分野で活躍したのは、第2次朝鮮通信使の正使であった呉允謙(海州呉氏)である。彼は伏見城で徳川家康と将軍・秀忠に会い、徳川氏による豊臣氏の打倒と全国統一を祝賀している。

 そのほか主な本貫と始祖は、同福・呉寧、宝城・呉賢弼、羅州・呉偃(オ・オン)、延日・呉洽(オ・フプ)、咸興・呉光輝、咸平・呉舜民で、みな高麗以後の文・武官であった。次は林氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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