ウリ民族の姓氏−その由来と現在(41)

統一高麗後門閥に発展の林氏

種類と由来(28)

朴春日


 林氏といえば、李朝中期の有名な文人・林悌(リム・ジェ)、智将・林慶業、そして農民軍の指揮者・林巨正を思い出す人が多いであろう。

 林悌は小説「元生夢遊録」「鼠獄説」「花史」などで封建支配層の悪政と腐敗を鋭く批判し、詩酒を友としながら名勝地を旅し、秀れた詩文と逸話を残した。

 また林慶業は、李ファルの反乱鎮圧で一等功臣となり、清の侵略者と劇的な戦いを挑んだ将軍として、軍談小説「林忠臣伝」などに描かれた。

 さらに林巨正は、特権層の虐政に反対し、黄海道の貧農軍を率いて悪質官吏を処断し、「義賊」と呼ばれて小説化、劇画化されている。

 さて、林氏は著姓の上位に位置し、本貫は216。主な本貫は、平沢・利安・保安・羅州・会津・善山・益山・恩津・鎮川・臨河などで、林悌は羅州林氏の、林慶業は平沢林氏の、林巨正は楊州の出身である。

 ところで平沢林氏の族譜の中には、始祖を新羅末、中国から来た官人・林八としたのが見えるが、それは例のごとく後世の付会でしかない。

 「三国史記」には、すでに新羅・祇摩(チマ)王のとき(121年)、林権という人物の昇進記事がある。これは林八よりも700年以上も前の出来事だ。

 また「三国遺事」には、真平王(579〜632年)のとき、林宗という角干(第1官等)が、興輪寺の桜門を建てさせたという記事がある。

 「典古大方」は「比干の息子・堅が長林山に隠れ住んだので、姓を林氏とした」と記す。「比干」の「比」と「長林山」は不詳だが、「干」は長を意味し、新羅と伽耶で使われた称号である。

 統一高麗の創建後、林氏は大きな門閥に発展した。政府の高官には林春吉・林寔(リム・シク)・林湘煖(リム・サンナン)・林積輿が名を連ねている。また外敵を撃退した林彦、暴君を倒した林衍(リム・ヨン)、詩文をよくした林惟正など、歴史に名を残した人士が多い。

 李朝時代には「忠義の士」と讃えられた学者・林成味がいる。彼は高麗を滅ぼした李成桂を指弾し、71人の弟子と山中にこもり、政府の誘いと脅迫に屈しなかった。

 壬辰倭乱のとき「長身、美男」の義兵将として名をはせた林仲★(木偏に梁)(リム・ジュンリャン)は、戦勝後の授勲と昇進を一切辞退し、江辺の亭屋で余生を送ったという。

 主な本貫の始祖は、平沢・林彦修、利安・林世椿、保安・林熙載、羅州・林宗仁、会津・林庇、善山・林良貯、益山・林成庇、恩津・林績、鎮川・林曦(リム・ヒ)、臨河・林★(草かんむりに翁)(リム・ウン)、醴泉・林椿である。

 古代日本へ移住した一族もいた。平安時代の「新撰姓氏録」には、林史(はやしのふひと)、林連(はやしのむらじ)らが見え、「百済国人、直支王より出ず」とある。次回は権氏。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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