生涯現役

李玉禮さん(75)

兵庫県初の女性校長として奮闘


 兵庫県尼崎市に住む李玉禮さん(75)は、朝鮮学校の数少ない女性校長経験者のひとりである。植民地時代は日帝統治下の朝鮮で学び、渡日後には、波乱万丈な人生を歩みつつ、民族教育に半生を捧げてきた。退職後の現在は、後世に民族文化を伝えるため、女性同盟文化サークルなどを中心に講演活動に励んでいる。

男尊女卑の壁

 李さんが、園田朝鮮初級学校(現在の尼崎東朝鮮初級学校)の校長に就任したのは1973年のこと。幼い頃から封建的な儒教思想の影響を受けて育っただけに、当初彼女は「男性の前に立つことを恐れ」、「荷が重過ぎる」と断ったという。そんな李さんを就任初日から「男尊女卑の厚い壁」は、容赦なく打ちのめした。

 「赴任先の学校へ行くと、教務主任が荷造りをしていたんです。理由は、男の校長にもできないことを女ができるか、ということなんですね」

 女校長の登用に反発し、露骨に異議を唱える者も少なくなかった。総聯支部の役員会議では「うちの県に男はいないのか」「委員長!  一体どうなっているんだ?」とがなり合う始末。

 校長が「女」ということが、それほどまで気に入らないのかと尻込みしそうにもなった。しかし、故・李珍珪第1副議長の「朝鮮学校の灯を消しても良いのか」という言葉に後押しされて、李さんは教壇に向かう。

学校運営

 赴任先の初級学校の状態は、当時悲惨そのものだった。深刻な経営難もさることながら、解放後、国語講習所を集めて創設した分校は、20年以上土足で使ってきたため、教室や廊下は真っ黒。

 李さんはまず、学校中を水洗いし、上履きで歩くよう指導した。すると、ピカピカになった校内に生徒たちは喜んだ。放課後は毎日家庭訪問に出かけた。父母会では子供たちのため、学校美化活動への参加を呼びかけた。しかし、生活苦にあえいでいた親たちからは「朝鮮学校は金がかかりすぎる」と不満の声が。

 李さんは根気強く「運動場には子供が遊ぶ砂場もなく、トイレは汲み取り式、中にはトイレが怖くて、学校が終わるまで我慢する子もいる、かわいいわが子ではないか」と説得を繰り返した。

 次第に学父母たちは、学校の補修と運営資金集めに協力し始めた。当時、年間の学校運営費は数千万円。そのうち朝鮮から送られる教育援助費は、3分の1を占めていた。李さんは今でも故・韓徳銖議長の「ナラエソ(国から)…」という歌を胸がつまって最後まで歌えない。

運動会の日

 学校長をしていた時には、実にさまざまな出来事があった。

 運動会の日に雨が降ると「女の校長はまったくついてないな」とか、「女校長は雨女」などと言われたこともある。でも、「女校長」の教育に対する熱意と責任感は周囲の者たちにも着実に伝わっていた。

 ある運動会の日、前日の大雨で水浸しになった運動場が気がかりで、早々と学校に出向いた李さんは、校門をくぐると、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。ひとりのハラボジがバケツを置き、運動場の水溜まりを熱心に雑巾で拭き取っていたのだ。

 「涙が溢れてきて、しばらく動けませんでした…」と李さんは言う。涙をこらえながら李さんが手伝うと、後からやってきた生徒たちが「ソンセンニム、何してんの?」と聞きながら、運動場の水抜きを手伝った。

 「大衆の力は偉大だと思いました。大衆を離れて、私たちの仕事は存在しません」。李さんは懐かしく振り返る。

講師として

 1996年3月、69歳で初、中、高級学校の約40年間にわたる教員生活に幕を下ろした李さんは、その後も祖国のために少しでも役立ちたいとの思いから、日本の友人たちの協力も得て、朝鮮の主婦たちにマスコット人形の作り方を教え、みやげもの店に商品として置いてもらえるよう働きかけた。「万景峰92」号や、ホテル売店で見かける、ハラボジ、ハルモニ人形がそれである。

 現在はその一方で、近畿地方女性同盟の文化サークルや、東京の朝鮮大学校での講演会などに講師として出向いている。望みは57年間離れていた故郷の地を踏み「両親のお墓の前で親不孝をわびて、人間らしく生きてきた報告をすること」。その日を今日も待ちわびている。(金潤順記者)

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