コリアンとして生きる(7)


人生観、世界観が変わる/3、4世にとって重要なテーマ

大阪芸術大学芸術学部4回生 朴重信

 3、4世が同胞社会の主人公として登場してきているこんにち、「コリアンとして生きる」――というテーマは、とても重要な意味を持つ。場合によっては人生観や世界観が変わったというケースも少なくないからだ。

 とくに、私のように日本の学校に通い続けている者にとっては、考えさせられ、また与えられるものが非常に大きい。私自身、自分の「存在」そのものにぶちあたり、日本で今後どのようにして生きていくべきかを考えさせられた。

 時間(歴史)の軸と空間(社会)の軸の交わる中で、自分はどのような歴史的経緯で存在し、どのような社会的状況の中で存在を規定すべきなのかなど、考えれば考えるほど悩んだ。これは退屈な日常生活をより充実させ、よりリアルにするために日本の若者たちがよくやる「自分探し」とは違う。

 われわれ在日の場合は、在日同胞の発生根源とかかわる問題であり、そこから自分の足元を見つめる作業が必要である。だから日本人とは違う観点で、「コリアンとして生きる」ことを考えることがよりいっそう求められてくるのだ。

 しかし、見えにくい日本の同化政策、差別構造の中ではこのようなテーマを見つけだし、答えを探すことすらできない人もいるかもしれない。私も留学同と出会う前までは、無意識のうちに日本人として生きてきた1人である。

 が、今は抑圧に対する抵抗として存在した「コリアン」よりも、生まれ持った民族性を個性として表現しようとする自分=コリアンの存在が増えてきているように思える。

 同胞社会は、自己の民族に対するアイデンティティーを失いかけている人、帰属する共同体を持たない人、その一方で民族性を確立しようとする人など、さまざまな人が混在している。今の私にはこの現実が善いのか悪いのかは判断しかねるが、私は在日コリアンとしてのアイデンティティーの確立をめざしている。

 米国での同時多発テロ以降、危機感や不安をあおる傾向が見られる。それを利用するかのように、日本当局は総聯組織を不当に弾圧し、同胞社会を分裂させようとしている。だが、このような問題も、「コリアンとして生きる」ということを追求していけば、その本質も見抜けるのではないか。だから3、4世にとって「コリアンとして生きる」というテーマが、重要なテーマとなるのだ。

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