「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(22)朴鐘鳴

「通信使」派遣の復活

「理想的」な交隣関係


17世紀〜19世紀初まで−1

 徳川幕府は、1603年、豊臣秀吉による8年間の侵略戦争―壬辰・丁酉戦争―「文禄・慶長の役」の暗い関係に終止符を打つため、朝鮮との国交回復交渉を積極的に展開した。

 こうして、国交が回復した1607年から1811年まで12回、朝鮮使節が300〜500人の規模で日本に派遣され、それは国と国とが「信義を通わす」という意味あいを込めて「通信使」と呼ばれた。当然、日本からも使節が派遣された。

 徳川時代は、一般に鎖国時代と言われ、どの国とも国交を持たなかったが、唯一朝鮮とだけは外交関係を結んで使節が相互に往来し、貿易や文物の交流も大変盛んであった。

 このような関係は、「平和的・友好的・善隣関係」であったと言ってもよいであろう。

 おおよそ、国交関係はそれぞれの国が「国益」を念頭に、対象国との間合いをはかりながら進めるのが基準である。つまり、侵略、戦争、支配・被支配といった関係よりも、原理的に平和、友好そして善隣こそが相互間の国益にかない、多少の相違点などは、その前では2次的なものであるという認識によって事が運ばれるのである。

 朝鮮王朝は、伝統的に日本を「島夷」として見なし、恩恵的に外交関係を設定するという観念が支配的であった。壬辰戦争後は、国家体制の安定と再整備、日本国情の探索、対中国外交の補強、そして交易の再開等々を目的に国交回復、通信使派遣がなされた。

 一方、武力を基礎に自らを「小中華」的に位置づける観念のなかで、日本は対朝鮮外交を構想してきた。戦後は、幕府の基盤の確立にあわせ、その権威を諸大名に誇示すると共に、政権の安定性を朝鮮側にも示し、近隣諸国の情報入手や朝鮮との貿易を復活させたいと願う徳川幕府にとっても、朝鮮との安定的な関係の回復とその維持は大いに意義あることであった。

 要するに、「島夷」「小中華」といった観念とは関りなく、この時期の朝・日関係では、秀吉の侵略終結直後の双方の国内の安定化という「国益」を最優先的に選択するという形で国交が回復し、その態勢は、時代の変遷につれ、時には不協和音を発することがあっても、それなりに調整しながら、「平和、友好、善隣」の関係が19世紀まで継続するのである。

 このような関係は、秀吉の侵略、戦争というあり方と対比してみる時、双方にとって格段に賢明な選択であったと言えよう。

 現在にあってもその基本は変わらぬものと思われる。様々な局面でやや緊張することがあったとしても、それによって双方が直ちに敵対的になったり、一触即発状態に陥らぬよう、何が「国益」かについての意見の差異を抱えながらも国交を維持し、あるいは平和的な関係を保って共存、共生を図ってゆくことこそが最も「国益」にかなう、との認識のもとに外交努力を進展させるべきであろう。

 このような努力を「理性的」と規定するならば、朝鮮と徳川幕府との平和的交隣関係の史的経験こそは、特に「理性的」教訓として主体的にしっかり受け継がれなければなるまい。

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