ウリ民族の姓氏−その由来と現在(45)
倭寇撃退した昌原黄氏
種類と由来(32)
朴春日
黄氏は著姓の中程に位置し、163の本貫を持つ古い氏族だ。主な本貫は昌原・長水・平海・尚州・紆燗・懐徳・黄州・江華・管城・豊徳などである。
ところで、黄氏は族譜ごとに由来が異なり、その祖先を古代中国の人物としている例が多い。 ある族譜によると、黄氏の祖先は後漢・光武帝の臣下・黄洛で、建武4年、使臣として渡海中、新羅の海辺に漂着して住みついた。そして「黄将軍」と称し、長男・甲古は平海黄氏の始祖、次男・乙古は長水黄氏の始祖、3男・丙古は昌原黄氏の始祖になったという。 しかし光武帝の臣下うんぬんは付会で、建武4年は西暦28年に当たり、新羅はまだ6カ村の小国にすぎなかった。 また懐徳黄氏の族譜は、元の大臣・黄洛が始祖で、彼が新羅に流配され子孫を得たというが、元の時期、わが国は高麗の時代で、新羅は滅びてすでに久しい。 さらに、ある族譜は、黄氏の始祖を古代中国の伝説上の天子・高陽氏の後孫だと書くが、これも作り話である。 始祖の官職も粉飾が多い。長水黄氏の黄瓊(キョン)は新羅の侍中(首相格)、昌原黄氏の黄忠俊は高麗の侍中、平海黄氏の黄温仁は高麗の金吾衛大将軍だというが、「三国史記」や「高麗史」にはその名が見えない。 では実際、歴史に名を刻んだ黄氏を見よう。まず高麗の文臣・黄周亮は、契丹族によって焼失した「高麗実録」を復元し、武臣・黄裳は倭寇撃退の勲功を立てた。前者は本貫不詳だが、後者は昌原黄氏である。 長水黄氏の黄喜は、李朝の名宰相と讃えられた人物で、名君・世宗を助け、国力と文化の発展に大きく貢献した。「清廉潔白の亀鑑」とは、史家の評である。 彼の子・黄守真も領議政を務めたが、玄孫の黄允吉は通信正使として訪日し、豊臣秀吉の侵略野望を見抜いた。そして帰国後、王に「賊、必ず大挙せん」と報告して国防の急務を説いたが、副使の金誠一は「賊、万も来る理なし」と否定した。 だが、秀吉は20余万の大軍を動員して侵略を強行した。この壬辰倭乱時、長水黄氏の黄進、黄赫、また星州黄氏の黄世得らが勇名をはせた。 長水黄氏の黄・ソンは、第9次朝鮮通信使の副使として、徳川吉宗と会見し歓待をうけている。 女流詩人・黄真伊は、あまりにも有名である。彼女は生来の美貌に加えて詩才と音曲に秀で、大学者・徐敬徳、名瀑・朴淵とともに「松都三絶」と讃えられた。 霜月の寂しき夜長を二つに折りて 時調「短か夜」である。彼女の生没年、本貫は不詳だが、熱き恋に生き、祖国の山河を愛して旅したその生涯は、後世、小説・映画・歌劇化されて感銘を呼んだ。つぎは盧氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |