「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(23)朴鐘鳴

礼分論に基づく「恩恵的」交易

唐辛子はこの時代に日本から?


17世紀〜19世紀初まで−2

 1609年、壬辰戦争の終結と共に朝・日間に「巳酉条約」が結ばれ、国交の回復とあわせて貿易も盛んになった。徳川幕府は対馬藩に朝鮮貿易を管掌させた。これは対馬藩にとって経済的に生命線と言い得る程の比重を持つ事業であった。

 貿易の形態は、@対馬藩主が朝鮮国王に挨拶状と共に品物を奉呈し(進上、後に封進)、その見返りに品物が下賜される(回賜)、A公貿易、B私貿易とに分かれる。

 「進上」「回賜」では定まった公式儀礼を経て、対馬からは東南アジアの物産(胡椒や染料等)、文房具、鉄砲、硫黄等が「進上」され、朝鮮からは木綿、朝鮮人参等が「回賜」された。この「回賜」が質量共に日本の「進上」よりも常に上回り、その他の経費と合わせて必ずといって良い程朝鮮側の持ち出しであった。朝鮮にとって、これは「その納る所、国家の経用に無益」であるが、「恩恵的な交易」という礼分論に基づいたものであったことから、いわゆる貿易の形式とはかけ離れたものだった。

 公貿易は、大体、朝鮮政府が指定したソウルなどの商人30名に代行させた。対馬藩は毎年正月、2月、3月、6月、8月の5回、歳遣船4隻をはじめ23隻を送るのが規定であったが、利益の多さもあって、様々な名目で1度に40〜50隻の船を強引に送りこんだりした。主な交易品は、日本からは銅、錫、東南アジアの物産等、朝鮮からはその代価としての木綿が主であった。日本は朝鮮の木綿に大きく依存していたこともあって、その輸入に大変積極的であったので、朝鮮国内の需給関係に悪影響を与える事態が起きたりもした。

 交易場所として「倭館」が釜山とその周辺に設置され、数100人の日本人が常駐して外交、貿易業務などに携わった。同時に施設の管理や交易のために朝鮮側の役人も常駐した。日本商船の滞留中は、食糧と合わせて多額の諸経費も朝鮮側が負担した(17世紀中葉の例では米約2万石、木綿4万5000余匹)。

 倭館で開かれる市での私貿易では基本的に制約がなかったので、日本側の得る利益が大変多かった。それ故、密貿易の横行(非常に多かった)や国家機密の漏洩を懸念して、朝鮮王朝は倭館での私貿易を規制した。

 私貿易では、日本から金、銀、銅等、南方産の胡椒・蘇木・水牛角・明礬(みょうばん)、小間物、硫黄等々、朝鮮からは朝鮮人参、生糸、白紵布、白綿紬、文房具、木綿等々、多様であった。

 また、密貿易も盛んで、禁輸品や規定量を超えたもの、そして、その中でも特に利益の多かった武器や朝鮮人参の取引が、発覚時の極刑も覚悟の上で、盛んに行なわれた。

 このような貿易で注目されるのは、17世紀初に日本からあのキムチに必須不可欠の唐辛子が朝鮮にもたらされたらしい、ということ。また、霊薬視された朝鮮人参の栽培が日本で試みられていたことである。

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