ウリ民族の姓氏−その由来と現在(49)
高麗、李朝の官吏
種類と由来(36)
朴春日
陳氏は稀姓の上位にあって、118の本貫を持つ氏族である。
主な本貫と始祖は、三陟(サムチョク=江原道)・陳忠貴、驪陽(リョヤン=忠清道)・陳悛、臨波(全羅道)・陳永安、興徳・陳浚、徳昌・陳力升、福州・陳承緒、楊州・陳仁光、南海(慶尚道)・陳★(示偏に禺)、羅州・陳英略などである。 彼ら始祖の多くは、高麗・李朝時代の中央・地方の官吏だが、陳氏の歴史は古く三国時代にさかのぼる。 たとえば5世紀後半、百済には陳明という「揚武将軍」がおり、新羅には陳春という官位第2位の官人がいたことから見て、陳氏はこの頃、一定の門閥を形成していたことがわかる。 高麗時代には、驪陽陳氏の始祖・陳悛が一兵卒から将軍となり、北方防備で活躍した。そして、その孫・陳寔(チン・シク)は、国王に進言する官庁の長官・大司諌を務め、同じく陳★(さんずいに華)(チン・ファ)は文人として、有名な李奎報と文才を競ったという。 また高官を務めた陳恩修、陳淑と、外敵撃退で活躍した陳龍甲もよく知られている。 李朝時代には、監察の任を務めた陳祉と、李舜臣将軍の親友であった陳武晟(チン・ムソン)が活躍した。とくに武晟は唐浦海戦で名をはせ、北方警備の亀城郡守を務め、戸曹判書(大臣)の功臣称号を授けられている。 つぎに、咸氏を見よう。 咸氏は稀姓の中程に位置し、本貫は64である。主な本貫は、江陵(カンルン)・楊根・開城・驪州(リョジュ)などだ。 江陵咸氏の始祖は、高麗政府の尚書(長官)を務めた咸済(ハム・ジェ)で、ここから分かれた咸挺は、李朝の開国功臣であったという。 楊根咸氏の始祖は咸規で、広評侍郎(次官)を務めたが、その5代孫・咸有一は孤児から官吏となり、「ボロ着の書記」とうわさされるほど清廉潔白であった。また、その子・咸淳は高麗中葉、「江左七賢」の一人として広く知られている。 江陵咸氏の咸傅霖(ハム・ブリム)は、李朝の開国功臣で刑曹判書を務め、その子・咸禹治も同じ官職をついだ。また孫の咸軒は書状官として清国を訪問している。 李朝・粛宗時代の代表的な画家・咸悌健と世輝父子は、江戸時代の朝・日絵画交流に大きく貢献した。 朝鮮通信使は毎回、正・副使・従事官ら各官員のほか、わが国の秀れた画員や医員らを同行したが、咸悌健は第7次通信使(1682年)のとき訪日し、狩野常信らと交遊したと見られ、名画「墨竹図」1幅を残している。 また咸世輝は第9次通信使のとき訪日し、「富士山図」1幅を残しているが、現存のものは扇面で評価が高く、大切に保存されている。 つぎは白氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |