ウリ民族の姓氏−その由来と現在(52)

高句麗・東川王時に登場の劉氏

種類と由来(39)

朴春日


 劉(リュ)氏のルーツは古く、246年、高句麗・東川王のとき、すでに歴史の舞台に登場する。

 魏のカン・丘倹が、数万の軍勢を率いて高句麗へ侵攻したときである。緒戦で6千の敵兵をせん滅した東川王は、「名将カン・丘倹も余の手中だ」と自賛し、騎兵隊を率いて追撃すると、魏軍は方陣を敷いて反撃した。

 古来の戦法には「敵が方陣を敷けば歩兵を出動させよ」とあるが、それに反した東川王は逆に猛攻をうけ、丸都城まで落としてしまった。このとき臣下の密友が、「敵は私が阻止します。王は退却してください!」といって奮戦したので、東川王は危うく難を逃れた。

 しかし時が過ぎても彼が戻らないので、王は「誰か密友を助ける者はいないか」と部下を見回した。すると劉屋句(リュ・オクク)が進みで、「私がやります!」といって救出に向かった。

 そうして彼は、傷ついた密友を背負って無事帰還したので、東川王はおおいに喜び、多くの土地を授けたという。

 劉氏は稀姓の中程にあって、49の本貫を数えるが、主な本貫と始祖は、江陵・劉筌(ジョン)、居昌・劉堅規、金城・劉暾(ドン)、白川・劉升、忠州・劉公著である。

 高麗時代、三別抄軍で活躍した劉存奕(ジョンヒョク)、文名をはせた劉沖祺、そして多くの王妃を出した劉晉(ジン)の家門が有名だ。

 李朝時代は大学者と評された劉好仁(居昌)、壬辰倭乱時の武将・劉克良(白川)が歴史に名を残している。

 つぎに孟(メン)氏を見よう。

 孟氏は稀姓の後半に位置し、本貫は27である。主な本貫は新昌(京畿道)・坡州・楊州・漢陽・清州・温陽など。筆頭格の新昌の始祖は孟義と伝えられる。

 この氏族でもっとも知られているのは、李朝・世宗時代に右議政・左議政を歴任し、「名宰相」とうたわれた孟思誠である。

 彼はじつに清廉潔白な人物で、ある大臣が彼の家で雨もりにあい、衣服をぬらしたという話は有名だ。

 もう一つの逸話は、彼が稀に見る親孝行者で、10歳で母を亡くしたとき、7日間も断食しただけでなく、その後3カ月にわたって粥(かゆ)をすすったそうである。

 孟思誠の父・孟希道の孝養譚も語り草で、彼は父母の墓の前に草ぶきの庵を立て、朝晩、そこでめい福を祈りつづけた。その至誠が天に通じたのか、ある日、白いつばめが庵の上を飛び交い、人びとを驚かせたという。

 彼の子・孟萬澤は黄海道監司として、その後孫・孟世衡も地方官として声望があった。

 また孟萬始は画家として知られた。とくに彼の描いた牛の絵は見事で、まるで今にも動きだしそうであったという。

 次回は任氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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