インタビュー この人と語る

朝鮮古代美術への畏敬と愛情抱いて

成城大学名誉教授・美学者 上原和さん


 ――名著聖徳太子論「斑鳩の白い道のうえに」から27年ぶりに刊行されました「世界史上の聖徳太子」(NHKBOOKS)が、とても話題になっていますね。

 ●米国のアフガニスタンへの報復戦争、イスラエル軍のパレスチナへの無差別攻撃など国際情勢は非常に緊迫している。米国の顔色だけを見て、易々として追従する日本の姿は、アジアの中でますます孤立する姿を浮き彫りにするものとなった。こんな時、21世紀の日本へ向かって、日本よ、いまこそ高句麗と国交を開いたり、仏教と仏教美術をあらゆる改革の基礎に据えた聖徳太子のように、東洋の愛と智慧をもって、世界平和に貢献してほしいという思いを込めた。

 ――本書の中で、先生は85年に初めて平壌を訪れ、大同江のほとりに立たれた時のことを感銘深く回想されました。

 ●朝鮮に深く心引かれるようになったのは、西洋の美学から転じて日本の古代美術史を専攻するようになってからのことだ。日本でおそらく多くの人がそうであるように、若い頃はひたすらヨーロッパの学問や芸術に憧れていた。そんな私が、日本の古代美術史を専門の仕事にするようになったのは、20代の終わりにふとした偶然のことから手にした本の口絵で、法隆寺にある玉虫厨子の須弥座に描かれている「捨身飼虎」図を見て、激しく心引かれてのこと。それからの約50年間、玉虫厨子を中心とした法隆寺の芸術、つまり朝鮮美術、そしてさらには聖徳太子の研究をしてきた。こうした日本の古代美術の研究を通して目を覚まされたのは、いかに日本の古代文化の成り立ちが、深く朝鮮の古代文化に負うているか、朝鮮から渡来した人々の手によって創られているか、ということだった。1枚の絵のただならぬ美しさによって私の生涯の方向を決定づけてしまった玉虫厨子の、そのたぐいない美の創造者たちが疑いようもなく、朝鮮からの渡来人たちであることを知って、当然のことながら私の心のうちに朝鮮に対して、朝鮮の人々に対して、あたかも遠いふるさとを恋ふるような、畏敬(いけい)と愛情、親しみがわいてくるようになったのだ。

 そして、久しい間見果てぬ夢だった、高句麗の故地平壌を訪れたのは85年の晩秋のことだった。聖徳太子は師として高句麗から迎えられた高僧・慧慈と深い師弟愛を結び、古代日本の基礎を築きあげたのだった。大同江のほとりにたたずみながら、そのことに思いをはせた。

 まさしく聖徳太子と慧慈の間に結ばれた深い師弟愛のきずながなければ、若き日の太子の内面的な人間形成、そして太子の教学はもちろん、推古朝下における高句麗との正常な国交の開始もありえなかったはずである。推古朝13年(605)に法興寺の新しい本尊の造立のため高句麗の大興王より黄金300両が贈られてきている。この金銅釈迦像こそ、慧慈と太子の友情の結晶、推古朝と高句麗との国交樹立のモニュメントといってよいだろう。

 ――先生はかつてホメロスの「イーリアス」の舞台トロイアを訪ねられました。ホメロスに共感するものは何でしょうか。

 ●彼は、自分の足で歩いて、目で見て、耳で聞いたものを記述した詩人である。朝鮮美術を学ぶうえで、私はホメロスにこの姿勢を学んだ。68年に初めて南朝鮮の土を踏み、飛鳥、白鳳美術の故地であるソウル、公州、扶余、慶州の各地を歩いた。戦後の日本の美術家としてもっとも早く朝鮮の地を訪れた一人だった。後に日本の専門家たちが訪れるのは、高松塚壁画古墳が発見されてからのことである。反日感情も強い当時の一人旅は容易ならざるものがあった。しかし、私はそこで忘れがたい体験をした。

 扶余の宿で一緒になった青年が、私が古代美術の研究者であることを知って、心を許したのだと思うが、彼は私に向かって、切々と南北に分断された民族の悲しみを語り続けた。そして、「臨津江」の歌だろうか、鳥ですら行き交うことができるのに私たちは無情にも軍事境界線によって肉親が引き裂かれたまま、会うこともできずにいるという意味の歌を小声で口ずさんでくれた。その青年が北の地を、肉親の住む愛しい大地として見ていることに胸を打たれた。私もしきりに北のかなたの高句麗の故地への憧れを抱き続けたのである。この時以来、私は南北がどんな政治的状況に置かれても、朝鮮を2つに分けて考えたことはない。

 2000年6月に行われた金正日総書記と金大中大統領の出会いと抱擁は、朝鮮民族にとっても私たちにとっても大変な幸福をもたらしてくれた。それは朝鮮の統一のために生涯を捧げ、高麗民主連邦共和国を提唱していた亡き金日成主席の志を実現するものであり、また、アジアや世界史的な意味を持つ画期的なできごとであった。いずれ金正日総書記のソウル訪問もあるだろうが、世界平和に与える影響は計り知れないものがある。

 南北いずれの人にとっても統一は民族の悲願である。私は心からその日の来るのを願わずにいられない。しかし、それは6.15共同宣言にもあるように、南北の人たちが自らの民族の意思と同胞愛によって達成すべきことであって、外国の容喙(ようかい)を許してよいことではないと信じる。

 金日成主席が心から願っていたように民族の自主的統一が達成されるように、決して外国の軍隊が干渉してはならないのである。

素顔にふれて

 聖徳太子研究の第一人者として知られる。上原さんに多大な影響を与えたのが、明治の開明期、1878年に東京大学のお傭い教師として来日したハーバード大学哲学科出身の美学者フェノロサであった。

 「フェノロサは、来日して2年後に法隆寺を訪れて以来、たびたび宝物を調査して、古代朝鮮文化や美術に深い畏敬(いけい)の念を抱いていた。彼は終生、聖徳太子とその時代に深い関心を寄せ、その源流とも言える朝鮮3国の文化へあこがれと感動のまなざしを向けていた」

 そのまなざしに吸い寄せられるように、上原さんの研究も自然に朝鮮半島やアジアへと向かった。

 68年に南朝鮮を訪問した後、74年にはヨルダン、シリア、イラン、アフガニスタン、パキスタンの砂漠の中の隊商の道を歩いた。そして東西文明の十字路とよばれるイスタンブールに滞在しながら、世界に目を向けていた聖徳太子の足跡を振り返ったという。

 その後85年と98年、念願の平壌に飛んだ。

 「もともと日本人は古代からの遥かな交流を通じて高句麗に対して格別な尊敬の気持ちを持っていた。それが近代の事大主義によって目が曇り、学問の世界も偏狭なものへと閉ざされていった。学会も縦割でアジアとの交流史に目が開かれていない。しかもその傾向はますます酷くなっているのが現状だ」

 平壌での忘れがたい印象――。大同江から万景台に主席の生家を訪ねた時のこと。そのつつましいたたずまいに「素朴な主席の人間性と温かさ、高句麗人とでも言えそうな明るい豪放磊落さ」を感じたと語る。

 古今東西の歴史と文化を縦横に語る口調が優しかった。(朴日粉記者)

プロフィール

 うえはら・かず 1924年、台湾生まれ。48年九州大学法学部哲学科美学美術史専攻卒業。同大学大学院特別研究生を経て、64年成城大学教授。文芸学部長・大学院文学研究科長を歴任。95年定年退職。現在名誉教授。著書に「玉虫厨子の研究」「大和古寺幻想」など多数。

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