ウリ民族の姓氏−その由来と現在(57)
文化柳氏から生まれた延安車氏
種類と由来(44)
朴春日
車氏は稀姓の中程に位置するが、110前後の本貫を持つ比較的大きな氏族である。
主な本貫と始祖は、延安・車孝全、龍城・車遇尚、南海・車之普、平山・車光翰らで、みな高麗の文・武官と伝えられる。 「東国輿地勝覧」や族譜などによると、車氏の登場は高麗初期で、その由来はこうである。 文化(黄海道)柳氏の柳車達は、高麗の太祖・王建が後百済を討つとき、荷車を動員して軍糧を運んだ功労により、建国功臣の称号を授けられた。そしてその息子・孝全は車姓を賜わり、延安を本貫とした。つまり文化柳氏から延安車氏が生まれたわけである。 「三国遺事」には、新羅・文武王の異母弟・車得公が見えるが、車氏の登場は高麗初とすべきであろう。 高麗時代、名を挙げた車氏は多い。まず車若松・車若椿兄弟は、父・車擧首の訓示どおり、文芸と武芸で活躍し、兄は正二品、弟は正四品の官位についた。 また車松祐は将軍に、車信は上将軍となり、車★(人偏に周)は兵馬使となって、外敵の撃退で軍功を立てている。 車原頫(チャ・ウォンブ)は、高麗末から李朝初にかけて足跡を残し、有名な鄭夢周や李穡(セク)と肩をならべた学者であった。だが李朝成立後、李成桂の執ような勧誘にも応じず、のちに暗殺されている。 彼の子孫にも著名人士が多い。5代孫の車軾(シク)は大学者・徐敬徳に学び、地位や財産には目もくれず、後進の育成に情熱を注いだ人物である。 また息子・車天輅(チョンロ)は、内外に広く知られた名文家であった。彼は宣祖時代の外交文書作成で才能を発揮し、訪朝した明の提督・李如松に「奇才だ!」と感嘆させ、文人・朱之番から「東方随一の文士」と称賛された逸話の持ち主である。 彼の後孫・車佐一は詩文・書画・音楽などに秀れ、丁茶山や洪良浩らの有名文人と才を競った。 特筆すべきは車忠亮・礼亮兄弟だ。彼らは女真族(清)の侵入に抗して奮戦し、千余の同胞を救出した。そして崔孝一らと組み、清の国王をちゅう殺すべく敵地へ乗り込んだが、事前に発覚。「恨を残して死すのは無念!」と叫んで壮烈な死を遂げたという。 * * この連載を始めて、すでに半年が過ぎた。紙数の都合上、内容の省略や割愛が不可避であったが、幸いにも読者諸氏から大変ご好評をいただいたうえ、「早く本に」というご要望まで寄せられ、筆者みょう利につきる思いである。 そろそろ終盤だが、残念ながら、この欄で500近い朝鮮の姓氏をすべて取り上げることはできない。したがって出版の際は全部の姓氏を網羅し、記述の過不足や誤記などを加筆補正するつもりである。ご了承いただきたい。 次回は郭氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |