4月から伊丹と統合 宝塚初級(兵庫)

友好のシンボル 日本市民ら感謝のコンサート


 「ありがとう宝塚朝鮮初級学校コンサート」が3月31日、兵庫県宝塚市の宝塚中学校・体育館で行われ、日本市民と同胞学父母らが観覧した。宝塚初級を拠点に、日朝友好親善に長年努めてきた日本市民で構成された同実行委(代表=佐々木基文住職)が主催した。同校は翌4月1日、21世紀、子どもたちをりっぱな朝鮮人として育てるためのよりよい環境を整えるとともに、学校の運営を正常化させることを目的に、隣接する伊丹市の伊丹初級と統合。生徒らは同胞学父母と青商会が新たに寄贈した通学バス「友好号」に乗って登校した。一方、24日には同胞学父母と卒業生ら400余人が参加して、「永遠に受け継ごう宝塚朝鮮初級学校の伝統」と題した休校式と感謝・お別れ会が催された。(羅基哲記者)

 コンサートでは、同校生徒たちの歌と踊りのほか、ロック歌手の朴保さんとソプラノ歌手の韓錦玉さん、30年前に同校で教べんをとっていた金剛山歌劇団団員の柳展鉉さんが朝鮮と日本、世界の名曲を披露した。

 また、この日の収益金が白煕奎校長に手渡されたほか、教職員らに花束が贈られた。白校長は、学校の存続のためにあらゆる努力をし、チャリティーコンサートまで開いてくれた日本市民らに謝意を述べたうえで、「宝塚で生まれた民族教育の伝統、朝・日友好の輪を引き続き発展させていきたい」と語った。

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3月24日に行われた感謝・お別れ会

 朝鮮学校の統合と関連して、日本市民がこのような集いを企画するのは珍しい。主催者だけでなく、宝塚市と市教育委員会が後援した。

 同地域には、朝鮮解放前の国鉄(現JR)福知山線のトンネル、高圧送電線鉄塔、県道拡張、六甲山系砂防、神戸水道拡張、武庫川改修などの危険な工事や、川西航空機工場の敷地埋立て・整地などの重労働に強制的に連行され従事させられた1世たちが解放後も住み続けた。彼らが子どもたちに民族の言葉と文字を教えようと、1946年3月に川辺郡小浜村安倉(当時)で国語講習所を開いたのが同校の始まりだ。

 48年10月に同市美座にあった鉄工所事務所を購入し、それまで5地域に分散されていた初等学校を統合。「朝聯宝塚中央初等学院」として自主的に運営してきた。56年に宝塚初級に改名。65年には新校舎を竣工した。

 その一方で、通学途中にある宝塚中学の生徒たちから「朝鮮学校ボロ学校」「朝鮮人ニンニクくさい」などと罵声をあびせられることが絶えなかった。そんな同校が、日朝友好のシンボルに変わったのは、宝塚中学の生徒たちが80年11月に同校を訪問したのがきっかけだ。

 「実際に学校は古かった。それでも、教職員と子どもたちがあたたかく迎え入れてくれたうえ、異国の地でも一生懸命に自国の文化を学ぶ子どもたちの姿を見て、同じ人間なんだから応援しよう、という意識が日本の生徒の中に芽生えた」と当時、同校の教諭だった佐々木住職は振り返る。

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コンサートで花束を贈られる教職員(3月31日)

 82年から始まった「阪神地区日朝友好小・中学生のつどい」には、宝塚中と美座小学校の生徒らも参加し、宝塚初級の生徒と交流を深めた。その一方で、宝塚初級の生徒たちは老人ホームや「たからづか民族まつり」で朝鮮の歌や踊りを披露し、地域に根付いた「小さな友好大使」としての役割も果たしてきた。

 こうした活動は、民族教育の正当性、必要性を日本社会に広くアピール。同校が全国でトップクラスの教育助成金を獲得し、市議会議員全員が日朝議員連盟に加盟するに至ったのも、同校生徒たちの地道な活動があったからだ。その過程で、日本市民が抱いていた朝鮮学校、朝鮮人に対する「偏見」はきれいに消え去り、逆に在日コリアンについて理解を示す人が増えていった。統合決定後の昨年6月、市民らは「学校の存続を願う会」を結成し、@市が土地を購入して貸付するA助成金の増額――を求めた署名運動を展開。約半年間で7750余人の署名を集めたが、この動きひとつを見ても同校を軸に日朝友好の輪が広がっていったことがうかがえる。

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 同校卒業生の李強浩さん(43、自営業)は30数年前の初級部1年の時、新校舎建設に際して運動場にテントをはって学んだことを今でも思い出すという。「子どもに冗談で日本学校に行くかと聞くと、泣きべそをかく。子ども心にも友だちを大切にし、民族の心を培っていきたいという意識があるのでは。学校が統合されてもこれで終りではない。パワーを結集して民族教育を発展させていきたい」と語っていた。

 徐吉男さん(47、建設業)も「力のある人は力を、知識のある人は知識を、お金のある人はお金を出し合って1世たちが築き発展させてきた学校だ。同胞らの心のよりどころだった。とても寂しいが、朝・日友好をはじめとする伝統は守っていきたい」と述べていた。

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