春・夏・秋・冬

 先日、「在日韓国人俳優が自分のルーツを探る」と銘打った番組が放映された。テレビなどでそこそこ活躍するその俳優が、実は自分が在日コリアンであったことを明かし、祖父の故郷である慶尚道を訪ねて親類に再会し、先祖の墓参りをするというもの

▼旅を終えて彼はこうつぶやく。「自分は韓国人でも日本人でもない。強いて言えばアジア人」。耳に心地よい響きなのだが、何かひっかかるものを感じて仕方がなかった

▼サッカーのワールドカップ共催に際して「日韓国民交流年」に定められた今年、友好や交流をテーマにしたテレビ番組をしばしば見かける。だが、親の反対を押し切って 日韓のカップル が結ばれるドラマやグルメ番組など、ワンパターンの企画が少なくない。そんな中、有名俳優が出自を明かし、自分のルーツを探るとあって、多少興味を持って見ただけに、期待はずれの感は否めなかった

▼そもそも、その俳優が本名ではなく日本名を使い、長い間、在日であることを公けにできなかったこと自体、日本社会に差別意識が根強く残っていることを反映していると言えまいか。未来志向も大切だが、過去をきちんと見つめてこそ未来がある。在日コリアンがなぜ日本に住むようになったのか、日本の植民地時代から掘り起こして検証する番組がひとつぐらいあってもいいような気がするのだが

▼過去の問題をきちんと清算せずに真の友好、交流などありえない。そんなことを考えると、くだんの俳優が自分を「アジア人」と称した深い意味を思わざるを得ないのだ。(聖)

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