ビデオ「ハッキョ」を観て

資本主義の競争原理でない思いやり、優しさ、暖かさ


 崔哲総監督によるビデオ「ハッキョ」。構想10年、制作に3年かけた意欲作だ。民族性をベースに今の朝鮮学校をめぐるさまざまな状況と向き合って、ヒューマニズムあふれた作品に仕上がった。

 山田洋次監督の同名の作品に映画「学校」シリーズがある。この作品の第1作目を撮り終えた時、山田監督に制作の動機を尋ねたことがあった。監督は「今の日本は、教育を含めて人間が幸せになれたかというと、決してそうではない。学校は競争社会の中で、窒息しそうな子供たちをたくさん生み出している。なぜ、こんな風になってしまったのか、どうすればいいのか、もう1度考えなおしてみたい」と語っていた。

 崔総監督の「ハッキョ」には、山田監督がイメージする学校像が鮮やかに提示されている。つまりそれは「他人への思いやりや優しさ、温かさが育まれる社会」などであって、資本主義の競争原理からすれば、紙くずのようなものかも知れないのだ。

 しかし、同胞の中にも、競争社会と化した日本の学校に憧れ、幼い時から1流大学、1流企業へのコースを唯一絶対的な価値にして、子供たちの尻を叩く親たちが出現している。こうした親たちは、民族性を育み、「1人がみんなのために、みんなが1人のために」という集団主義的な目標を掲げる朝鮮学校を敬遠する傾向にある。

 あるいは、グローバリゼーションの時代に「民族的アイデンティティーだけでは飯は食えない」というまことしやかな言説。「国際化の時代に民族、民族と言うのは古い」という倒錯した議論。

 こうした民族教育をめぐる昨今の的はずれの非難や中傷にあえて、果敢に挑戦し、答えを出したのがこの「ハッキョ」である。

 しかし、だからと言って、この作品は通り1遍のプロパガンダ作品ではない。ハッキョをめぐるさまざまな問題点を相対的にとらえ、その答えを観る人に委ねているところに、新鮮さがある。心の奥底にズッシリ響く直球やカーブが映画から投げ返される。その時、観客が何を感じ、どう受けとめるのか。

 ビデオの中で、最も感動的な場面は、広島の日本の高校に通う親のいないキム・ヘミさんに同県の日本人教師たちが、民族教育を受けることを勧め、朝鮮大学への進学費用も自分たちで、奨学金制度を設立して解決する場面だ。日本の教師たちの人間教育への熱い情熱と信念。深く考えさせられる場面でもあった。

 9.11以降の国際情勢を見る時、民族問題をめぐる大国の支配と干渉は激化の一途をたどっている。その時代を生きる子供たちに、「朝鮮人として生きる」というシンプルで大切な意味を教えられる場は「ハッキョ」なのだ。

 人には譲れないものがある、ということを気づかせてくれる作品だ。(粉)

 (制作はロコモーション、協力・「民族教育21」制作委員会ほか、TEL 045・371・7112)

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