ウリ民族の姓氏−その由来と現在(61)
新羅の首相格 康氏、学者の多い周氏
種類と由来(48)
朴春日
康氏は著姓の後半に位置する。56の本貫のうち、代表的な本貫と始祖は、信川・康葡匐(カン・ポボク)、載寧・康適、谷山・康庶、康翎(リョン)・康拯(ジュン)、晋州・康汝楫(ヨヂュプ)、雲南・康千熙、任実・康理と伝えられる。
彼らは主に高麗・李朝の官吏だが、康氏の歴史は古く、「三国史記」は新羅・訖解(フルヘ)王26(345)年、康世が首相格となり、倭軍撃退で活躍したと記す。 高麗の太祖・王建の部下には康允珩(ユンヒョン)をはじめ、多くの康氏が名をつらねていた。 そのひとり康兆将軍は、契丹侵略軍40万を迎え撃つとき、緒戦には勝利したものの、隙をつかれて敵に捕らえられた。しかし最後まで屈服せず死をとげている。 また外敵撃退で功があり宰相となった康拯、貪官汚吏を処断して名を残した康允明、文名をはせた康日用、宋で称賛された康就正と康戦らがつづく。 李朝時代には、外敵掃滅で一等功臣となり、領議政になった康純、学問的著作を残した康逵(キュ)、医学者として貢献した康命吉、そして中国語・蒙古語・日本語の訳官として康舜龍、康和尚、康遇聖らが活躍した。 とくに康遇聖は数奇な運命をたどる。彼は壬辰倭乱のとき日本へ連行され、10年後に帰国したのち、第2〜4次朝鮮通信使の訳官として三たび訪日した。 そして日本の言語と歴史文化・風土に関する「捷解新語」10巻を編纂し、李朝の対日外交に寄与しただけでなく、中国でも出版され、国家試験の教科書に活用されたという。 つぎに周氏である。 周氏は稀姓の上位に位置し、35の本貫を数える。 主な本貫と始祖は、尚州・周仲文、草溪・周同載、咸安・周英賛、長興・周彦邦、森溪・周士雍(チュ・サウン)、豊基・周叔孫で、高麗の官吏と学者が多い。 「高麗史」には、初期に周仁傑、中頃に周肅らの官僚が見えるほか、対明外交で活躍した周誼、周英賛と、孝子として知られた周憬がいる。 李朝に入ると、明の文人を感嘆させた周怡(イ)、後進育成に尽力した周世鵬、博学で多くの訳官を輩出させた周大仁らがいた。 有名な言語学者・周時経は、近代的な朝鮮語学研究の先駆者である。李朝末、極貧の家に生まれた彼は、早くからわが民族文字「訓民正音」の意義を説き、「人々を漢文のとりこから目覚めさせ、知識の真の門戸を開くために、国語教育に全力をつくそう!」と主張した。 しかし軍国日本の侵略と弾圧により、国内で国語学研究と独立運動が続行できなくなった彼は、活動の場を国外へ移そうとして病に倒れ、39歳の若さでこの世を去っている。 次回は田氏と具氏である。 (パク・チュンイル、歴史評論家) |