戦争法案 有事法制の裏の騒ぎ

しゃらくさい「人権大合唱」


 「国民の誇り」とか、「慰安婦は商行為」などの発言が台頭していた頃、歴史学者の網野善彦さんにたっぷりと話を聞いたことがあった。「従軍慰安婦が兵士以下の奴隷的な状態におかれていたことは疑いない。戦場に『従軍慰安婦』を住まわせて、兵隊が、行列をつくって並ぶなんてことは、世界のどこの国でもやったことはないのではないでしょうか。今頃『国民的な誇り などといわれたりすると、しゃらくさいという感じを持つ」。

 その時聞いた「しゃらくさい」という言葉が、すごく気にいった。こんな風に使うとピッタリね、と得心したものだった。

 日本の「瀋陽亡命事件」をめぐる大騒ぎにもこの言葉を投げつけたい。

 「従軍慰安婦」問題の時には、被害者らの「人権」やら「人道」には無関心だった面々が「人権大合唱」をあげている。その同じ顔ぶれが、今国会で、「日本を戦前の軍事国家にしようとする戦争法案」(山田朗明大教授)=有事法制の実現にやっきになっているのを思えば、何やらキナ臭い。

 北に食糧難があり、この数年の「苦難の行軍」については、内外に知らぬ者はいない。朝鮮への国際的な食糧支援の輪が広がっており、朝鮮政府は、心から謝意を表明してきた。

 しかし、今回の事件についての日本の政治家やメディアの「人権大合唱」は、朝鮮の指導者と国家体制へのひぼう中傷を主な標的にしているもので、常軌を逸している。

 それはこの機に乗じて、あらゆるメディアで繰り広げられている難民対策を含む有事法制キャンペーンや怒とうのような北叩きによく表されている。かつて「植民地支配は正しかった」の妄言で物議をかもした自民党の幹部らが、あたかも「人権の旗手」のように振る舞っている様は醜悪である。この事件は、本質的には中日両国の外交当局者間の問題である。ここに来て阿南惟茂・駐中国大使の「亡命者は、館外に押し返せ」(東京新聞15日付)発言が表沙汰になった。日本政府のこうかつな二枚舌外交ぶりは、世界を呆れさせている。

 昨年、映画「カンダハール」を作ったイランの映画監督、作家マフマルバフが、数百万人といわれるアフガニスタンの餓死者や飢餓に対して世界が無関心であることを痛烈に批判したことがある。「私はこの2〜30年間で人口の10パーセントが殺されたり、国民の30パーセントが故国を逃げ出したという国が他にあったとは思えない。そして、また、世界がこれほどまでに、こうした事態に無関心だったという例を思い出すこともできない」。

 アフガンやパレスチナへの無差別空爆や虐殺には沈黙した日本の政治家やメディアが、なぜ、今度はこんなに大合唱をするのか。近代史のひもを解いてこの答えを探ってみよう。

 例えば、近代日本の朝鮮侵略の突破口を開いたいわゆる江華島事件(1875)から、完全な植民地支配に転落した韓国併合条約(1910)まで35年かかった。この間、日本は用意周到に、朝鮮を属国化する内外政策を整備していったのだ。

 軍事的威圧で締結された76年の日朝修好条約は第1款で日本は「朝鮮ハ自主ノ邦ニシテ」と高らかに歌い上げた。1884年の日清戦争の目的は朝鮮の「独立」のためと宣伝された。「自主」「独立」が真っ赤なウソで、まず朝鮮から清国やロシアの勢力を排除し、日本の属国にするためだったことは、今では誰もが知っている。

 明治の頃の「朝鮮がこういう状態だからこそ、日本が干渉して保護してやらないと、日本の安全も守れないのだという政治家や軍人、そして広く国民一般にまで広がった朝鮮観」(歴史学者・中塚明氏)は、現在でも日本の隅々に浸透している。今回の事件で「日本の主権」や国益、危機管理を声高に叫びながら、日本は再び朝鮮を利用して、戦争の道へ突き進もうとしているのだ。

 戦争前夜のようなただならぬ日本の気配とは正反対に朝鮮半島は和解と平和、統一の動きが顕著である。2000年の6.15共同宣言から2年、南北の多方面の交流が進み、冷戦時代の象徴的な人物である朴正熙大統領の娘、槿恵さんが訪朝し、金正日総書記とも会った。

 本紙特派員電によれば槿恵さんは「いかなることがあっても、民族自主精神を守り抜き、民族の前に確約した7.4共同声明と6.15共同宣言の示す道に進むべきである」の決意を表明したと言う。北南指導者の平和の構想力と決断、政治的イニシアチブによって、歴史の歯車は確実に前進しているのだ。

 再び朝鮮半島有事を口実に、軍備強化、海外派兵に乗り出そうとすることは、もはや許されない。日本政府はリスクを冒して、東アジアで緊張状態を醸し出すのではなく、真の正義の道、朝鮮に対する歴史的責任を認め、謝罪と賠償、補償の問題に取り組むことから始めるべきである。

 かつて、朝・日関係がこじれにこじれていた時、1人の信念ある政治家が立ち上がった。故久野忠治代議士である。派閥のボスから反対され、右翼から脅迫されながら凄まじい気迫で、訪朝を実現し、日朝間に太い信頼関係を築いた方だった。こんな信念のある政治家は、今日本には見当たらない。(朴日粉記者)

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