ウリ民族の姓氏−その由来と現在(63)

驪興閔氏、千年間王室と姻戚関係

種類と由来(50)

朴春日


 閔(ミン)氏は、長い歴史と由緒を持つ大門閥である。

 閔氏は著姓の中程に位し、25の本貫を持つ。主な本貫と始祖は、驪興(リョフン)・閔稱道、黄驪・閔存壽、栄州・閔慵で、みな高麗の官吏。ほかに漢陽・竹山・清風の本貫が知られている。

 「三国史記」は、高麗建国時、後百済の甄萱が重臣・閔卻(カク)を祝賀に遣わしたと記す。

 高麗時代、黄驪閔氏の閔令謨は名宰相といわれ、その子・閔G(シク)は正義感に富む文臣で、有名な李奎報の親友。その後孫・閔漬(チ)は政丞で、史書「世代編年節要」などを編さんし、閔曦(ヒ)は外敵撃退で戦功を重ねた将帥である。

 驪興閔氏は、高麗・李朝の約1000年、王室と姻戚関係を結び高位級の官僚を輩出させた。

 李朝第3代・太宗王の元敬王后は、閔霽(ジェ)の娘であり、第19代・肅宗王の王妃も同族であった。またこの時期、閔煕・閔鼎重(ジョンジュン)・閔黯(アン)・閔鎮長をはじめ、名だたる宰相が続出している。

 そのほか学者として閔安仁、武人として閔汝雲・閔済章・閔聖微が知られている。

 李朝末の高宗の母、つまり大院君の妻と、その嫁・閔妃(ミンビ)も驪興閔氏の出であった。事大に走ったとはいえ、他国の王妃を白昼公然と虐殺したのは、軍国日本の殺人鬼だけである。

 つぎに楊氏である。

 楊氏といえば、まず高句麗の名将・楊萬春(ヤン・マンチュン)将軍を思い出すであろう。

 唐の太宗は644年秋、100万の大軍を率いて高句麗へ侵攻した。そして遼東城をはじめ高句麗の諸城を次々に陥落させ、楊萬春将軍が指揮する安市城を総攻撃した。

 このとき将軍は城内の軍民を決起させ、88日間におよぶ敵の攻撃を勇猛果敢に撃退した。疲労困ぱいした太宗はついに総退却を命じ、「魏徴(忠臣)が生きていれば、この遠征を止めただろう」と嘆いたという。

 さて楊氏は稀姓の中程に位し、47の本貫を擁する。主な本貫と始祖は、清州・楊起、中和・楊浦、安岳・楊凝、南原・楊敬文で、みな高句麗の官吏である。

 高麗時代は楊志・楊信麟・楊規の3将軍が活躍した。とくに楊規将軍は契丹侵略軍40万と戦って倒れたが、その子・楊帯禄(中和)が広く知られた。

 とくに楊士彦は名筆家で、金剛山・万瀑洞の巨岩に刻まれた「蓬莱楓獄元化洞天」の8大文字は、いまでも訪れる人々を感嘆させている。

 また楊萬世は、第1次朝鮮通信使の学官として活躍した。次回は玄氏と卞氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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