ウリ民族の姓氏−その由来と現在(64)

高麗初期に門閥形成の玄氏

種類と由来(51)

朴春日


 玄氏一族は千有余年の歴史を持つ。

 史書によると、新羅末の景明王2(918)年、玄昇という貴族が見え、高麗建国時には、玄律という兵部朗中(正5品)がいたとある。

 したがって玄氏は、一族が繁栄して稀姓の最上位に位し、106の本貫を持つに至っている。

 主な本貫と始祖は、昌原・玄徳祐、延州・玄孝哲、星州・玄珪で、昌原玄氏からは玄孝生を始祖とする一族が生まれた。始祖はみな高麗の文・武官と伝えられる。

 この時代、玄呂は蒙古軍を痛撃した勇将として、玄徳秀(延州)は義理に徹した将軍として広く知られた。

 李朝時代には、先の玄孝生の子・玄碩圭が清廉潔白な忠臣として、右参判(正2品)に昇進している。

 また、玄以基(広州)は博学な学者であり、玄在徳(川寧)は名筆家として、多くの扁額や碑石を残した。とくに彼の雄渾で独特な草書は、多くの人々を賛嘆させたという。

 対日関係で活躍した人物も多い。第8次朝鮮通信使に随行した医員・玄万奎をはじめ、第10次の訳官・玄徳淵、同じく写字官・玄文亀、第11次の訳官・玄泰翼、第12次の訳官・玄義洵、玄式らが名をつらねている。

 つぎに卞氏である。

 卞氏は著姓の後半に位し、本貫は42。代表的な本貫と始祖は、密陽・卞高迪(ピョン・コジョク)、草溪・卞光で、ともに高麗の文官であるが、ほかに楊州・坡平・南陽・安城などの本貫が知られている。

 「高麗史」初出の人物は、第17代・仁宗王のとき科挙に及第した卞純夫だが、密陽卞氏の卞玉蘭は、幼時に父を亡くし、上京後、刻苦勉励して宰相に昇進している。

 李朝に入ると、彼の息子が活躍した。卞仲良は承旨を務め、卞季良は李朝の外交文書作成と人事管轄の要職を20余年間も務め、右参議に任じられている。

 草溪卞氏は、室町時代の訪日使節・卞孝文をはじめ、多くの愛国烈士と著名な文人を輩出した。

 学者の卞玉希は、壬辰倭乱が起こると義兵部隊を組織し、弥陀山の南城戦闘をはじめ、連戦連勝の武勲を立てたが、最後の戦いで倒れた。そのとき息子の卞尚東は父の遺骸を抱いて投身しようとしたが、それに感激した敵将は、その岩に「忠孝岩」と書いて撤収したという。

 忠臣・卞延壽も、名将・李舜臣将軍のもとで勇敢に戦い、死をとげた。また卞献は高僧・休静と惟政の僧軍に加わり、戦功を重ねた。そして戦勝後はさらに学問を深め、その絶妙な書芸は明の文人を感嘆させたという。

 さらに画家・卞相壁(密陽)の動物画と人物画は、まるで生きているように鮮やかで、人々は彼を「国手」と讃えている。

 つぎは辛氏と魯氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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