ウリ民族の姓氏−その由来と現在(68)
学問に長けた人物多い石氏
種類と由来(55)
朴春日
石氏は稀姓の後半に位置し、73の本貫を持つ。
主な本貫と始祖は、花園(慶尚道)・石汝明、忠州・石冑(ソク・チュ)で、ともに高麗の文臣。ほかに広州・楊州の本貫が知られている。 石氏の歴史は古く「三国史記」は新羅第26代・真平王(579〜632年)のとき、伊★(氵に食)(第2位)の石品が同僚と反逆を図って失敗し、処刑されたと伝えている。 高麗時代、忠州石氏の石冑は、忠烈王の側近として権威をふるった。また石隣は地方の兵馬使(司令官格)を務め、石文成は三司(財政担当)の右使(正2品)を歴任している。 花園石氏の子孫は、始祖に似て学者が多い。李朝時代、石之珩(チヒョン)は孝宗が認める学者であったが、昇進の機会に恵まれず、生涯、開城で学究生活を送ったという。 石希璞(ヒバク)は博学で人望があったが、意ならずして郷里で生涯を終えた。詩作もよくし、「海東遺珠」や「昭代風謡」に作品がある。 石★(敬に手)日も学問をよくし、要職を歴任して典籍という成均館の正6品の官職を務めた。 画家・石敬は有名な安堅の弟子で、彼の人物画と竹の絵は高く評価されている。 つぎは慎氏である。 慎氏は著姓の後半にあって、15の本貫を持つ。代表的な本貫は、居昌・雙阜(サンプ)・果川・新昌・玉泉・晋州である。 「高麗史」は、第11代・文宗(1047〜1083年)のとき、慎脩(シン・ス)という医術に長けた宰相がいたと伝える。居昌慎氏の始祖である。 彼の子・慎安之も兵部尚書という官職にありながら、医術と中国語をよくし、外交文書の作成にも携わっていたという。 李朝時代には、礼曹参議(正3品)を務めた慎後甲の子・慎自健が知られている。彼は文書作成と法律処理に秀れていただけでなく、昌徳宮「曜金門」の扁額を書く名筆家でもあった。 慎承喜も話題の人物であった。彼は娘を第10代・燕山君に嫁がせ、領議政まで務めたが、王が暴政をほしいままにすると、官職を辞退し土地を返上して政界から身を引いた。 彼の子・慎守勤は左議政であったが、「中宗反正」という政治的事件が起こり、弟の守謙、守英とともに殺害されている。 慎守謙の8代孫・慎後聃(フダム)は学者で、有名な李瀷の弟子。文をよくし、西洋学を排斥するなどして多くの著作を残した。 次回は元氏である。 (パク・チュンイル、歴史評論家) |