生涯現役
崔吉子さん(66)
現役バリバリの野外カメラマン
京都市伏見区在住の崔吉子さん(66)は、現役バリバリの野外カメラマン。背筋をしゃんと伸ばして明るい笑顔で接する姿は好感が持てる。
崔さんの仕事は、京都・平安神宮で、お宮参りや七五三、修学旅行、社員旅行に訪れる人々の記念写真を撮ること。21歳で写真屋に嫁いだ後、ずっとこの仕事に関わってきた。 崔さんが結婚した1950年代といえば、まだコンパクトカメラが一般家庭に普及される前で、写真はとても貴重なものだった。日に観光バスが20、30台訪れると、写真の1000枚などはあっという間。夫が撮った写真を現像して焼き付けるのは、もっぱら義母と嫁の役割だった。 寝る間もない日々 当時、現像液の配合から定着液につけて薬を流し、水を切って乾燥させ、重石で紙を伸ばし、4隅を揃えて1枚の写真を仕上げるまでの工程はすべて手作業。水道もなく、夜通しポンプを押していた。 「寝る間がないから眠くて眠くて…。でも生活のためには働かなくてはならない。夫によく、目の前にあるのは写真じゃない、金だと思え! と言われました」と崔さんは言う。寝る間もないほど仕事に追われる日々。作業場の片隅に寝かせた乳飲み子をあやすこともできず、赤ん坊の汗と涙で「(子供を寝かせていた)座布団が泣いているようだった」。 取り払われた「壁」 崔さんがカメラを手にするようになったのは、夫が肺炎で倒れた75年の元旦だった。「信用第一」の厳しい世界、それゆえにいかなる理由であっても仕事に穴をあけるわけにはいかなかった。三脚を立て、必死になって写真の撮り方を覚え、それ以降、約30年にわたり写真をとり続けている。 現在、京都市内に約50軒ある野外写真屋のうち、同胞が営む写真屋はわずか1軒。「写真は技術。だから誰にでもおいそれと技術を学ばせてはくれないの」と崔さんは言う。 たしかに、現像液に使う薬品のグラムが少し違ったり、お湯の温度が少し熱かったりするだけで、配合された薬品が水に溶けなかったり、写真の色が出なかったりするのだ。その微妙な調合の分量や温度加減を伝授してもらえたのも、「夫のまじめで誠実な人柄を見込んでのこと」と崔さんはいう。 平安神宮内での撮影を許されているのも、日本の業者2軒と崔さんのところだけだ。桓武天皇を祀っているところだけに規制も厳しく、お金を積んでもやすやすと営業許可は得られない。 崔さんは、夫と自身の経験から「仕事をするうえで、朝鮮人とか日本人とかいうのはあまり大きなことではない。あえて朝鮮人ですと、声を上げることはないけれど、聞かれたら堂々と答えればいい。芯がしっかりしてたらええのや、というのがうちと夫の信念です」と話す。解放後の朝鮮人差別がひどかった時代を、崔さんら夫婦は、誠実な人柄と丁寧な仕事ぶりで乗り越えてきたのだ。 「あるとき日本の人たちと、船で宴会をしたことがあったんです。そのとき、アリランを歌ってくれと言われましてね…。それまで隠しているつもりはなかったけれど、特に主張もしていなかった。でもみなさんお見通しだったんですね。うれしかったです…」 見えない「壁」は少しずつ取り払われている。4、5年前からは神宮入り口の守衛室にも入れるようになった。「日本の人たちは以前から入っていたんですが、うちらは入れず、ずっと外にいたんです」。 野外の撮影とあって、客を待つ日には、雨の日も、風の日も、雪の降る寒い日も、真夏の焼けるように暑い日もある。守衛室への出入りもまた、崔さんらの人柄を見込んでのことだろう。 仕事と楽しみ 大阪万博があった年にカラー写真が登場して、それ以降、現像、焼付けは他の業者に任せるようになった。家庭用のカメラの普及とともに目の回るような忙しさからようやく開放された。 「今は楽しくやってるんです。仕事を続けることで、生活に張りも出ますしね。それにこずかいもできる、それがうれしい」と、崔さんは笑う。仕事が辛く、生まれ変わったら二度と写真屋だけには嫁ぎたくないと、同業者のお嫁さんたちと話していた頃が懐かしい。 体調の悪い日もあった、三叉神経を患って8時間にも及ぶ大手術をしたこともあった。でも崔さんの笑顔に陰りはない。 「いろんな人を見てると、感謝の気持ちが沸いてくるんです。仕事があるということ、お金をもらえるということ、生活ができるということ、家族がいるということ、すべてに感謝して生きています」(金潤順記者) |