ウリ民族の姓氏−その由来と現在(69)

42の本貫持つ元氏、武人多い邊氏

種類と由来(56)

朴春日


 元氏の歴史は古い。新羅には元文と元弘が、高麗には元器と元師、元貞公の名が見え、有名な元宗は、過酷な収奪に抗して大規模な農民暴動をくり広げている。

 さて元氏は著姓の中程に位置し、42の本貫を持つ。基本的な本貫は原州で、始祖は高麗創建の一等功臣・元克猷(ウォン・クッユ)である。また広州・漢陽・坡平・水原・利川の本貫が知られている。

 歴史に残る人物も多い。高麗の武将・元忠甲(原州)は1290年、蒙古軍が侵入したとき、わずかな部下を率いて敵軍を撹乱し、数十頭の軍馬をろ獲している。

 元天錫は高名な学者で、高麗が滅ぶと、「盛衰は世の常か 満月台は草むし/五百年の王業 牧童の笛に偲ぶ/夕日落ちて 旅人は涙するのみ」という詩を詠んだ。

 李朝の官を拒んだ彼は、第3代・太宗に2人の孫の将来を問われると、臆せず「一人は父に似て、もう一人は祖父に似る」と答えた。父とは名君の世宗、祖父とは暴君の太宗を指すが、この予言は的中している。

 元天錫の死後、子孫が遺言に背いて箱を開けると、彼が書き残した野史6巻が現れ、李朝の支配層が「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事実が述べられていた。

 また12編の詩には、高麗末の辛★(示偏に禺)王は辛邨の子ではなく、恭愍王の子と書かれていた。

 ほかに重臣・元孝然と元阜、壬辰倭乱の元均と元豪、元斗杓(ドゥピョ)、人望のあった元斗樞(ドゥチュ)、そして名筆家の元海振らが知られている。

 つぎに邊(辺)氏である。

 邊氏は著姓の後半にあって、本貫は67。主な本貫と始祖は、黄州・邊呂(ピョン・リョ)、原州・邊順、長淵・邊永仁、加恩・邊立中で、高麗の文・武官が多い。

 「三国史記」によると、新羅・真平王のとき、北漢山州の長官に邊品という人物がおり、高麗・徳宗王のとき、北方警備で功労のあった邊柔がいる。

 邊氏には愛国的武人が多い。黄州邊氏の始祖・邊呂は蒙古軍の拷問に屈せず、その侵略企図を挫いたし、邊協(原州)は日本の海賊撃退に功があり、宰相となった。

 また邊以中(黄州)は、壬辰倭乱のとき、朝廷が明軍を頼んで彼の部隊の撤収を命じたが、これに応ぜずに敵を撃退した。そして300台の荷車で幸州山城戦闘を支援して勝利し、数十万石の軍糧を運んで戦争勝利に大きく寄与している。

 邊洽(フプ)は水軍の指揮官、軍の総司令格で勇名をはせ、邊繼は医師であったが、義兵闘争で活躍した。

 邊應井は邊協の甥で、早くから学問をよくしたが、壬辰倭乱が起こると筆を投げうち、部隊を率いて敵船撃沈の軍功を立てた。そして錦山戦闘で壮烈な死をとげたが、その勇猛さに感嘆した敵将は、彼を手厚く葬って碑を立てたという。

 次回は延氏と兪氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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