朝鮮人強制連行調査の記録

新刊「関東編1」1世の証言から 


 ち密な資料と証言で朝鮮人強制連行の実態を描いて好評のシリーズ「朝鮮人強制連行調査の記録」(柏書房)。今回出版された第6集は、神奈川、千葉、山梨の3県を調査した「関東編1」である。本書では、全国最大の横須賀地下工場の実態調査、強制連行は「なかった」(県庁)という千葉県での初の調査などが盛り込まれている。とくに、強制連行された1世たちの証言は生々しく、生活感が漂う。本書に掲載された1世の証言を紹介する。

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 「8月15日を私は決して忘れることができません。横浜空襲で煙をかぶった私は、体中にぶつぶつができ膿んで痛くてしようがないので、塩水につかれば治ると聞いて本牧まで海水につかりに行っていました。昼過ぎに飯場へ帰る道すがら、通りすがりの人はみな放心状態で、泣いている人もいました。私はこの光景を見て『日本が戦争に負けたのだ。戦争は終ったのだ』と思いました。飯場へ戻るとみな大喜びで、『国へ帰るぞ、お前も帰るだろう』と口々に言っていました」
(李用鎮氏、1922年生まれ、横須賀市在住、逗子市地下工場などで働く)

 「昔から、朝鮮の女性は白いチマチョゴリを着ていた。私も当然のように白いチマチョゴリを着ていた。すると黒い服を着ろと警官に脅され、殺されると思い身動き一つできなかった。家へ帰ってみると背中部分が黒い墨で真っ黒になっていた」
(金伴心氏、1912年生まれ、横浜市在住)

 「日本語は朝鮮にいた時に習った。朝鮮語は使用禁止だった。当時の朝鮮での生活はひどいものだった。家畜のほうがまだましだった」
(安成鎬氏、1925年生まれ、千葉・茂原市在住、日立航空機大網地下工場などで働く)

 「友達ができなかったんですね。引っ越して学校がかわりますと、まず学校へ行くと『朝鮮人にんにく臭い』と言われよくいじめられました。それに勉強ができると生意気だと言われ、できないと馬鹿と言われ、よくいじめられました」
(朴順連氏、1929年生まれ、千葉市在住)

 「当時、協和会手帳がないと切符が買えなかった。そこで現場の人に代わりに協和会手帳を申請してもらった。ひとつの手帳を3人で使いまわしていた」
(李在寿氏、1927年生まれ、千葉・松戸市在住、日本曹達会津工場に連行)

 「当時の子どもたちの喜ぶ娯楽として『紙芝居』がありました。その紙芝居で、こともあろうに震災時の朝鮮人虐殺を面白おかしく再現してみせているのです。…画面には、日本刀で首をはねられている同胞の姿や、竹槍で串刺しになって血を噴き出している同胞の姿が真っ赤な絵の具をたっぷり使って描かれています。何の罪もない同胞が殺されたことだけでも口惜しいのに、自分たちの犯した残虐行為を正当化しようと宣伝しているのを見ると、こみあがる怒りをどうしようもありません」
(文戊仙氏、1908年生まれ、横浜市在住、東京毛織など)

 「つらかったことはたくさんあったが、何より日本語がわからないため、日本人に指示され怒鳴られても意味がわからず、おどおどしているとまた怒鳴られるという始末であった。『便所』という日本語がわからず困ったことがあった。恥ずかしい話だが、お尻をパンパンと何度も叩いて、監督に手を合わせやっとわかってもらったこともあった」
(姜守連氏、1921年生まれ、今年4月死去、兵庫・西脇紡績工場で働く)

 「東葛地方では運河と八木村と柏にいっぱい朝鮮人が住んでいた。千葉市で朝聯の集会があるというとトラックを3台ほど借りて、みんなで荷台に乗っていったもんだ。当時は運動が高揚していてね。たくさんの人が集まったもんです」
(朴好城氏、1912年生まれ、茨城県在住)

 「ある日、『金日成将軍』が白頭山からくるという知らせを聞いて、みんな隠れてしまった。…金日成将軍の噂を流したりしたら、みんな日本軍につかまったり殺されたりした。その当時の日本軍の権力はすごかった。朝鮮人が殺されるのを、直接は見なかった。でも、恵山と中国の間を流れている川の橋の方で、死体が吊るされているのを見たことがある」
(延順子氏、1919年生まれ。千葉・松戸市在住、両江道恵山出身)

 ここで紹介した証言はほんの一部である。もっと詳しく読みたい方は「朝鮮人強制連行調査の記録―関東編1」で。定価=2800円+税。発行=柏書房(TEL 03・3947・8251)

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