若きアーティストたち−5

弾き語り 金宗碩さん

ストリートで歌ったことをバネにして


 幼いころから長渕剛のファンだった。車の中に流れるハスキーな歌声に胸打たれ、6年生になった頃には、お気に入りの歌詞やライブのトークを「長渕ノート」に写していた。

 「おぼえては書いて、歌っては書いて…(笑)。切ないような、悲しいような、でも絶対負けてなんかいないぞっていう男らしさに引かれたんでしょう。カッコ良くって、憧れてました」と金宗碩さん(24)はいう。

 次第に自身の手で、作詞、作曲を手がけるようになった。作詞ノートは何冊にもおよぶ。ギターをはじめたのは中1のとき。コツコツと貯めたこづかいを持って、楽器屋に向かった。「俺も今日から長渕になれるかな」と思って。その後、神戸朝高に入ってからも音楽熱は冷めやらず、進路はがぜん「音楽の道」と決めていた。卒業から1年、バイトで貯めたお金を持ってバイクにまたがり上京。「頼るところはどこにもない、そんな中で自分の力を試してみたかった」。

 朝夕の新聞配達をしながら、ひと月3万9000円の4畳半のアパートで暮らした。朝は2時起き。1日1〜2時間の睡眠で、ほかにも居酒屋、内装屋、派遣会社、荷揚げ屋などでがむしゃらに働いた。

 「家賃、学費、食費も全部自分でまかないました。親に頼ろうとは思わなかった。大変な毎日だったけど、生きてるっていう充実感がありました」

 上京して通い始めたESPミュージカルアカデミーを1年足らずで中退。「実践で力をつけた方が良い」と思ったからだ。東京で暮らす3年半の間、新宿や立川のライブハウスをまわり、路上ライブをしながら自分を磨いた。忙しい中立ち止まって、自分の歌を聞いてくれる人、自分の歌に共鳴してくれる人がいる、という喜びが励みになった。

 少しずつファンもつき、音楽イベントの出演依頼や某ラジオ番組からゲスト出演の仕事も入ってきた。

 体を壊し、地元尼崎に帰ったとき、訪ねて来た朝青委員長に誘われて、母校・尼崎朝鮮初中級学校の8.15記念行事のステージや日本学校に通う在日同胞学生のためのサマースクールの舞台にも立った。歌った歌は、自作の歌と「朝露」。当初、同胞イベントの席で日本語の歌を歌うことにためらいがあった。同胞に嫌がられはしないかと。

 「日本語で表現すること自体、僕としては恥じてはいないけれど、誘ってくれた朝青委員長に迷惑をかけはしないかと…。でも、同胞がのってくれて…うれしかったです」

 卒業後もウリハッキョのトンムたちや同胞社会とのきずなを大切にしている。自分に翼をくれたのは、ウリハッキョだから。「友情」をテーマにした歌も数曲作った。今後はメジャーデビューを目標に、オーディションを受けるという。「できるだけ多くの人に届く歌を歌いたい、メジャーデビューしたら応援よろしくお願いします!」(金潤順記者)

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