ウリ民族の姓氏−その由来と現在(72)
蘇我氏のルーツは百済人
複姓について(下)
朴春日
前回につづいて、わが国の主な複姓を取り上げる。
まず司空(サゴン)氏。本貫は孝霊(ヒョリョン)・居平(羅州)の2つである。 史書には先に司空澄の名が見えるが、孝霊司空氏の始祖は司空圖(ト)で、その後孫には高麗時代の文官・司空仲常と司空實、そして司空裴らの名が伝えられている。 ちなみに、百済の官署に司空部(サゴンブ)があって、土木・建築部門を担当し、寺工・鑪盤(ロバン)博士・瓦博士・画工らの専門技術者を統括していたが、司空氏との関わりは定かでない。 つぎに鮮于(ソヌ)氏。本貫は太原と平壌の2つである。うち太原鮮于氏の始祖は鮮于仲(ソヌ・ジュン)で、その後孫に鮮于靖がいた。 史書に見える人物は鮮于浹(平壌)で、李朝第16代・仁祖王時代の学者である。 彼は仁祖王の度重なる招請にも応じず、山中で弟子たちと学問を究めていたが、つぎの孝宗王のとき、やっと官職について、人々から「関西夫子」と呼ばれ、尊敬されたという。 時代は下るが、鮮于赫(ヒョク)は著名な抗日運動家で、いわゆる「寺内正毅暗殺謀議事件」の嫌疑で投獄された経験を持つ。その後、彼は上海で金九・呂運亨氏らと新韓青年党を組織し、抗日運動に献身している。 つぎに西門(ソムン)氏で、本貫は安陰・清州・咸陰・東州(鉄原)など。そのうち安陰西門氏の始祖は、進士であった西門潭(タン)と伝えられる。 つぎに獨孤(トクコ)氏。本貫は広陵・羅州・南原・黄州・義州など。そのうち広陵獨孤氏の始祖は、獨孤潤(ユン)と伝えられる。 つぎに扶餘(プヨ)氏。この氏族の本貫は百済で、始祖は周知の初代王−温祚(オンジョ)王である。 その後孫にあたる扶餘優壽(プヨ・ウス)は百済初期の名臣といわれ、扶餘隆は、百済末の義慈王の太子であったが、新羅・唐の連合軍によって百済が滅んだとき、洛陽へ連行されて客死している。 最後に「三国史記」に登場する有名な複姓の人物を挙げると、まず高句麗の愛国的名将・乙支文徳(ウルチ・ムンドク)将軍がおり、同じく勇名をはせた明臨答夫(ミョンリム・タプ)将軍、そして百済の名将・黒歯常之(フクチ・サンジ)将軍らが知られている。 特異な例は、百済の貴族・木(モクラ)満致で、彼は5世紀末に倭国へ渡り、定住地名の「ソガ」をとって「蘇我満智」を名乗ったという学説が日本にある。 確かに彼は「三国史記」に登場し、その子孫は韓子・高麗などの名を持つから、蘇我氏のルーツが百済人であった史実は動かないだろう。 つぎは、帰化氏族の姓氏について。(パク・チュンイル、歴史評論家) |