生涯現役
金久善さん(76)
人生のドラマは演劇と共に
毎月2回、兵庫県伊丹市にある総聯伊丹支部下河原分会には、高齢同胞たちの歌声がこだまする。
「コサリ」会。一昨年に行われた兵庫同胞高齢者音楽祭に出場したのを機に結成された歌のサークル。メンバーは、60〜80代の女性で、かつては女性だけによる演劇を手がけた仲間たちだ。同会代表を務める金久善さん(76)は、当時の中心人物の1人。彼女の男役は観衆たちを魅了し、伊丹の演劇を全国にとどろかせた。 15歳で結婚 慶尚北道金泉市の貧しい農家に5人兄妹の長女として生まれた。7歳の時、アボジを追ってオモニ、兄妹と共に玄海灘を渡った。 大阪での生活は裕福ではなかった。兄は早くからアボジと共に一家を支えるため働きに出た。 金さん自身も学校は小学校3年までしか通えなかった。末弟が生まれ、長女である彼女が弟の面倒を見なければならなかった。しかし、金さんにとっては、それがかえって「好都合」だった。学校では、毎日「朝鮮人のバカヤロウ! 出て行け」と罵られ、勉強もおぼつかなかった。恐怖心にさらされた。「忘れることのない苦い体験」という。 15歳で結婚。親孝行だった金さんは、具合が悪いアボジに孫の顔を見せたくて伊丹に嫁いだ。 男役がはまり役に トラック運転手だった夫の金永大さんは、愛国心の強い人だった。解放後は、愛国事業の道へと進んだ。
「夫は私に朝鮮語を習わそうと必死でした」。当時盛んだった国語(朝鮮語)講習所で母国語を習った。家での会話は朝鮮語。ウリマルを覚えないと、子供の教育に悪影響を及ぼすからだ。 やがて4人の子宝に恵まれ、長女と長男は祖国に帰国。娘を見送る新潟港の埠頭で別れを惜しむ姿はなかった。 「いずれ私たちも帰国するつもりだったから、涙は出なかった」 夫の影響を多大に受けた金さんも、総聯結成後の初代女性同盟伊丹支部委員長として同じ道を進んだ。 そして43歳の時、劇の舞台に上った。当時(1963年)、東京で中央大会が開かれると、各支部でコーラスなど催しものを発表することが盛んだった。 伊丹では演劇を出すことが決まり、当時の文芸同兵庫委員長の助けを借り、けいこをはじめた。出演者は全員女性だった。 当時は祖国分断下の厳しい対立の時代。南朝鮮の朴正煕軍事独裁政権打倒をテーマにした演劇で金さんは朴正煕役を演じた。 「いざ、配役を決めようとすると、誰もその役を嫌うのでしかたなく、私が役を引き受けた」 パイプをくわえ、憎々しい朴正煕の姿は観客に大いに受けた。以来、女性同盟伊丹支部の演劇は中央大会の名物となった。 「びっくりしましたよ。大会を終え、西日本へ帰る参加者らは、こぞって伊丹に立ち寄って演劇成功を祝ってくれました」 それからさらに2本手がけ、たびたび東京に向かった。抗日遊撃隊をテーマにした作品では日帝の手先(男役)の役、歌舞団をモチーフにした演劇でもアボジ役を演じた。 思い出歌にこめ
元来の映画好き。ストーリーよりも俳優の演技に魅力を感じていた。なかでも「ウリエゲヌン チョグギ イッタ(私たちには祖国がある)」という映画に衝撃を受け、俳優業にあこがれるようになった。 「もし、結婚しなかったら、きっと祖国に帰って俳優の勉強をしていたよ」 「だって文化活動は私にとって人生そのものだもの」 夫に音痴だとからかわれて、敬遠していた歌を3年前に始めた。 昔の演劇仲間らとまた楽しい時間を過ごす機会ができた。マイクを握り、思い出話に花が咲く。故郷の山河を脳裏に描き、青春時代に思いをはせる。1世の思い出は、この地で歩んできた在日朝鮮人の貴重な歴史だろう。(千貴裕記者) |