ウリ民族の姓氏−その由来と現在(74)
「三国遺事」所収の「延烏郎と細烏女」
移住氏族について(上)
朴春日
古代朝鮮と日本列島との関わりは、いまから約5000年前にさかのぼると考えられている。
わが民族の始祖王・檀君王倹が樹立した古朝鮮を初め、扶餘・句麗・辰国などの古代国家は、青銅器・鉄器文化と農耕文化を発展させ、領土の拡大をめざした。 そして紀元前3世紀頃から高句麗・百済・新羅・伽耶などの封建国家が成立し、高度な金属・稲作文化を擁して海外へも積極的に進出した。 とくに、わが国の移住者集団は日本列島へ積極的に進出し、未開地を開拓してマウル(村)、コウル(郡)、ナラ(小国)を築き、弥生時代の到来をもたらした。 彼らの渡海のピークは、@弥生時代前期A4世紀後半〜5世紀前半B5世紀後半〜6世紀初期C7世紀中葉――と見られるが、その数「百万人規模説」(埴原和郎氏)は注目に価しよう。 こうした進出・移住の歴史は、さまざまな形で朝・日両国の神話や伝承に反映されているが、それを姓氏の側面から見れば、また興味深い史実が浮かび上がる。 神話の世界はさておき、それを伝承や説話から見ると、わが国では「三国遺事」所収の「延烏郎(ヨン・オラン)と細烏女(セ・オニョ)」が挙げられる。 すなわち、新羅の阿達羅王4(157)年、東海岸(迎日湾)に住む延烏郎が出雲へ渡って王に推され、後を追った妻の細烏女も王妃になったという話である。 この説話は、出雲地方で王権を握った新羅人集団の存在を物語るが、延氏については、高句麗の始祖王・高朱蒙の義父が延陀勃(ヨン・タバル)であったことを想起されたい(細氏は不詳)。 一方、「古事記」や「日本書紀」など、日本の古文献には古代朝鮮からの移住者関連の記事が頻出する。 まず新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)は垂仁3(紀元前27)年に渡来し、但馬に定住して豪族・出石一族の始祖になったという。天(あめ)が朝鮮を意味したことは周知のとおりだ。 また集団的な進出・移住の代表例は、応神14(283)年、「百済から夕月君(ゆつきのきみ)が百二十県の民を率いて渡来した」という記事である。 夕月君は豪族・秦(はた)氏の祖とされるが、共和国の学者はこれを6世紀頃、北九州の百済人勢力が畿内大和へ進出したもの、とみなしている。 その6年後、同じく東漢(やまとのあや)氏の祖・阿知使主(あちのおみ)が「十七県のともがらを率いて渡来した」が、これも西から東への進出であったろう。 また、日本で「文学の始祖」と讃えられた王仁(わに)の渡来も、ちょうどこの頃である。 こうして倭国王権の2大門閥−秦氏と漢氏が登場したわけだが、その数は「各々数万名を数えた」(「古語拾遺」)という。(パク・チュンイル 歴史評論家) |