ウリ民族の姓氏−その由来と現在(75)

王権の中枢掌握、やがて土着化

移住氏族について(中)

朴春日


 古代朝鮮の氏族集団は日本列島へ進出し、倭国の形成と発展に深く関わっただけでなく、王権の中枢を掌握して繁栄し、やがて土着化していった。

 そうした史実を物語る日本側の史料は、「古事記」や「日本書紀」、「懐風藻」や「万葉集」、そして「新選姓氏録」など数多い。

 まず古代豪族から見ると、倭国の有力な豪族はほとんど古代朝鮮の移住勢力と深く関わるが、葛城氏が新羅系、蘇我氏と王仁氏が百済系であることは周知のとおりだ。

 とくに蘇我氏は、百済の貴族・木満致(モクラ・マンチ)が倭国へ渡来し、ソガの地に定着して「蘇我満智」と名乗り、その子に「韓子」、孫に「高麗」と朝鮮風の名をつけたと考えられる。

 その木満致は「三国史記」百済本紀の蓋鹵王21(475)年条に見え、王子とともに「南へ行った」とあるが、帰任したという記事はない。

 日本最古の漢詩集「懐風藻」には、百済の貴族・沙宅紹明(さたくしょうめい)の名が見える。

 彼は660年、新羅・唐連合軍によって百済が滅ぼされたあと、多くの百済官民と日本へ亡命した。そして大友皇子の賓客として、同じ百済官人の塔本春初(とうほしゅんしょ)・吉大尚(きつたいしょう)・許率母(きょそつも)・木素貴子(もくそきし)らと招かれている。

 天智朝は、沙宅紹明に法官大輔(法務大臣)を授け、鬼室集斯(きしつしゅうし)を学頭職(国立大総長)に、憶礼福留(おくらいふくる)を築城責任者に任じている。

 668年には高句麗が滅亡。その前後に背奈福徳や高麗若光ら、高句麗の貴族・官人と多くの民衆が日本へ亡命した。若光はのちに武蔵国高麗郡の郡守となる。

 さて「懐風藻」には、古代朝鮮の移住官人や文人らが秀れた漢詩を残した。

 彼らの地位と政治的序列は、「姓(かばね)」という制度によって、連(むらじ)・首(おびと)・公(きみ)・王(こきし)・史(ふひと)・忌寸(いみき)などと呼称されている。

 以下、主要な詩人を挙げると、麻田連陽春(あさだのむらじやす)・大津連首(おおつのむらじおびと)・春日蔵老(かすがのくらびとおゆ)・百済公和麻呂(くだらのきみやまとまろ)・釈弁正(しゃくべんしょう)・背奈王行文(せなのきみゆきふみ)・田辺史百枝(たなべのふひとももえ)・調忌寸古麻呂(つきのいみきこまろ)・刀利宣令(とりのみのり)・葛井連広成(ふじいのむらじひろなり)・山田史三方(やまだのふひとみかた)・吉田連宜(よしだのむらじよろし)ら、計23名で全体の3分の1強を占めている。

 彼ら移住氏族は7世紀後半、すなわち百済と高句麗の滅亡によって故国との関係が断ち切られたあと、しだいに土着化し、姓氏をも変えていったのである。
(パク・チュンイル、歴史評論家)

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