ウリ民族の姓氏−その由来と現在(76)

「万葉集」に登場する人物たち

移住氏族について(下)

朴春日


 古代朝鮮の移住氏族は、日本最古の歌集「万葉集」20巻に、どのような軌跡を残したであろうか。

 この歌集は、7世紀初頭から8世紀中葉まで約130年間の和歌4500余首を収録し、幾度も増補されながら奈良時代末期に完成したと考えられている。

 万葉学の泰斗・中西進氏は、「万葉の時代(七、八世紀)には朝鮮を無視しては何事も理解できない」と指摘し、「そもそも、万葉集の歌を出発せしめたものが、古代朝鮮からの衝撃力であった。……あの白村江の戦がなければ、万葉集もなかったかもしれない」(「万葉の時代と風土」)と述べている。

 ここでいう「白村江の戦」とは、663年、百済救援の倭国軍が白江(錦江下流)で新羅・唐軍に大敗した戦いを指す。

 これで百済の復興は絶望となったが、そのとき百済の貴族・高官と民衆の一部が倭国内の百済勢力を頼って亡命した。天智朝が彼らを受け入れ、貴族や高官たちに官位を授け、多くの民衆を近江国内に移住させたことは、よく知られている。

 こうして、彼らとその子孫は、先に移住していた高句麗・新羅・伽耶系の官・文人らとともに、「万葉集」に登場してくるのである。

 では、「万葉集」に登場する朝鮮移住氏族系の人物は、どれほどいたであろうか。

 これには諸説があって、いまなお研究がつづけられているが、登場人物総数540余人のうち、100余人を占めると推定されている。

 そのうち歌を残した移住氏族系の人物は90余人と見られ、比率からいえば百済系が圧倒的にに多く、つづいて高句麗・新羅系ということになる。

 ここで象徴的な例を挙げてみると、「懐風藻」のところで言及した麻田連陽春(あさだのむらじやす)がいる。

 彼は百済の遺臣・塔本春初(とうほしゅんしょ)の子で、有名なつぎの歌を詠んでいる。

  韓人(からひと)の衣(ころも)染(そ)むとふ紫(むらさき)の情(こころ)に染(そ)みて思ほゆるかも

 大意は、故国の人が染めるという紫色のように、心にしみて忘れがたいことよ、である。その故国はむろん、父祖の国・百済であったろう。

 彼の元の姓は塔本で「百済国朝鮮王准の子孫」というが、居住地の麻田(大阪・豊中市)にちなんで、麻田連の姓(かばね)が授けられたらしい。

 同じように「万葉集」に歌を残した吉田宜(よしだのよろし)は吉大尚の子で、楽浪河内(ささなみのかわち)は沙門詠の、椎野長年(しいのながとし)は四比福夫の、余明軍(よのみょうぐん)は余自信の、山上憶良(やまのうえのおくら)は憶仁の子である。
=この項つづく=  (パク・チュンイル 歴史評論家)

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