「有事」の狙い―識者と考える (4)

ごう慢で冷静さ欠く朝鮮報道

斎藤泰彦さんと安重根


 さいとう・たいけん 宮城県生まれ。仙台一高、東北大学文学部卒。駒沢大学大学院人文研修士課程修了。朝日新聞記者を経て曹洞宗大林寺住職。
 朝鮮併合前の1909年10月26日、ハルピン駅頭で日本の初代首相伊藤博文が射殺された。独立運動家・安重根によってなされたこの一撃は、亡国の苦しみにあえぐ朝鮮民族の気概を世にとどろかせ、侵略者を震えあがらせた。

 安は5カ月後に処刑されるのだが、直前まで獄中の身≠いたわったのが、当時24歳の憲兵千葉十七であった。

 「むろん初めは刺客ぐらいにしか思っていなかった。ところが、安重根の法廷での堂々たる日本統治批判、祖国のために一身を投げうった清廉なふるまいに接し、千葉は心から敬服し、引きつけられていったのです」

 この2人の運命的な出会いをヨコ糸に、朝鮮への貪欲な植民地支配を強めようとする日本の動きをタテ糸に据えて書き上げたのが、「わが心の安重根―千葉十七・合掌の生涯」(五月書房刊)である。

 「千葉は退職して帰郷後、妻と共に仏壇に遺影を飾り、終生供養を続けた。1934年、49歳で亡くなった後は、妻とその一族の人々によって受け継がれてきた。千葉夫妻が永眠する寺の住職として、その心の旅路をたどってみたかった」

 大林寺は平泉・中尊寺に近い静かな田園地帯に建つ。田圃の青々とした苗にそよぐ風の音に心がなごむ。寺の境内からは秀峰、栗駒山が美しい稜線を見せている。晩年の千葉がこよなく愛した景色である。ここで静かに思索にふけるのを日課にした。

 「町の古老らの話によると、千葉は東北の風土そのもののような素朴な人柄で、高文官試験をめざして勉学にも励んだ非常に知的な人だったらしい」

 この資質が、後の安重根との心の交流を生み出したのではないかと斎藤さんは考えている。 千葉が生きたのは、戦争の狂気にとりつかれていった時代であった。日露・日清戦争でその基礎を固めた日本は本格的な朝鮮侵略に乗り出していった。その両輪の1つが軍事力であり、もう1つはいわれのない朝鮮への蔑視観である。教育勅語や教科書、新聞などあらゆる手段を通じて朝鮮への内政干渉と侵略政策が醸成されていった。そして、日本は朝鮮、中国、アジア全域へ戦争を拡大、敗滅への道をたどったのだった。

 安重根の死から92年。日本では戦争へと人々を総動員できる有事法制の制定が声高に叫ばれるようになり、再びアジア諸国の不安と警戒心を呼び覚ましている。

 「政府首脳の非核3原則見直し発言に見られるように日本の政治家の歴史認識の軽薄さ、常識のなさ、すべてに救いがたいものがある。日本を再び滅亡の危機にミスリードすることをまさに恐れる」

 9.11以降、米国の主導の下に、世界は反テロ戦争への道をまっしぐらに突き進む。「こんな時だからこそ、日本は平和憲法の精神に立ち返り、隣国朝鮮半島の人々と手を結び、緊張ではなく、平和と和解の方向に舵取りをすべきなのに、日米同盟強化や軍事大国化の方ばかりを考えている。東アジアに位置する国として、バランス感覚を取り戻して政治や外交に当たらねばならない」。

 元新聞記者として、冷静さを欠くメディアの朝鮮報道にも顔を曇らせる斎藤さん。

 「北の食糧事情の苦しさにもっと思いをはせるべき。朝鮮分断の責任の多くは、日本にあることを知らねばならない。贖罪意識を忘れて、思い上がったバッシングばかりでは、問題は解決しない」

 いま、国際政治の現場では、NGO組織が、反グローバリゼーションを掲げ、反原発、貿易不均衡、環境問題にも取り組んでおり、大国の利害だけで、世界が動く時代ではない、と斎藤さんは語る。

 「こういう時だからこそ、安重根と千葉を結んだ糸をもう1度手繰り寄せ、忍耐強く、温かい気持ちで、隣国への食糧支援や日朝国交正常化への道を真摯に探るべきだ」
(朴日粉記者)

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