取材ノート

署名運動に思う


 大阪で民族教育の権利拡充を求める署名運動が始まった。94、96年に続くものだが、96年に集めた20万人分の署名は小杉隆文部大臣(当時)にも直接手渡された。

 「文相自らが差別の実態を認め、1条校に準ずる処遇が認められるよう努力して欲しい」。5分という制約された時間。大阪朝高の金弘輝校長、同校3年の金貴美さんらは大阪同胞の気持ちを切々と伝えていた。

 おかしいことをおかしいと言い続けることの大切さ。3度目の署名に立ち上がった大阪の同胞を見ながら痛感したことだ。

 太陽が照りつける夏の炎天下、オモニ、アボジたちは額に汗しながら、声を枯らしながら朝鮮学校が強いられている差別を訴え、懸命に署名を集めている。

 署名に法的な拘束力はない。しかし、対話することなしに制度的な差別が解消されることはない。その意味で署名は、在日同胞がなぜ民族教育を望むのかを理解してもらう絶好の機会だ。

 朝鮮学校に対する理不尽な差別が半世紀以上も続いているのはなぜかと思う時がある。さまざまな要因があろうが、やはりこの制度を許している世論の存在が大きいのではないだろうか。

 日本政府は現在、朝鮮学校を各種学校という枠に押し込め差別を正当化しているが、理不尽な差別は枚挙にいとまがない。

 例えばハンセン病患者への強制隔離政策。昨年5月に熊本地裁で勝訴判決が下されたことで、偏見と差別に苦しみ続けてきた元患者たちが初めて国の謝罪を勝ち取った。最終的に数千人に膨らんだ原告団が日本政府を追い込み、政策の誤りを認めさせたのだ。1世紀近く続いた「制度」という大きな山を動かしたのはまさに世論だった。

 ふたたび署名運動に思う。一人ひとりが名前を書き込む過程は日本の教育制度を人の名に値するものにする道につながっている。(慧)

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