ウリ民族の姓氏−その由来と現在(77)
定説化した「山上憶良渡来人論」
移住氏族について(補遺)
朴春日
「万葉集」の朝鮮系氏族を見るうえで、代表的歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)は重要な位置を占める。
教科書で彼の名歌を学んだ人は多いと思うが、教師から「憶良は百済系の歌人です」と教えられた記憶は、まずないであろう。 しかし万葉学者・中西進氏が「山上憶良渡来人論」を唱えて30余年、この学説はほぼ定説化したと見てよい。 憶良は4歳で百済の滅亡に遭遇し、父・憶仁と日本へ渡った。 その後、憶良は伯耆守・筑前国司などを歴任。「類聚歌林」を編さんし、74歳で没したが、「万葉集」には78首の歌を残した。 銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝(たから)子に及(し)かめやも 彼の名歌の1つ。銀も金も、玉とても何の役に立とう、優れた宝も子供には及ばない、の意である。 有名な女流歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)は、新羅人の後裔(えい)と見られる。 彼女は鏡王の娘で、近江国鏡村の額田で成長したが、そこは新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)を祖先神とする陶人(すえびと)集団の居住地であった。 額田王は才色兼備の女性で、天武天皇との間に十市(とおち)皇女を生み、宮廷詩人の役割を果たした。歌数は13首だが有名歌が多い。つぎは恋歌。 君待つとわが恋ひをればわが屋戸(やど)の簾(すだれ)動かし秋の風吹く 博士・背奈行文(せなのゆきふみ)は武蔵国高麗郡の出身。父は高句麗の官人・背奈福徳である。 奈良山の児手柏(このてがしは)の両面(ふたおも)にかにもかくにも佞人(ねじけびと)の徒(とも) 卑屈な役人らを風刺した歌。彼の甥・高麗福信は奈良朝の高官、武蔵守などを歴任して高倉朝臣の姓を授けられた。背奈↓高麗↓高倉という姓氏の変遷が読みとれる。 高丘河内(たかおかのかわち)は「文雅の人」。父は百済官人・沙門詠である。以前は楽浪(ささなみ)姓。 故郷(ふるさと)は遠くもあらず一重山(ひとえやま)越ゆるがからに思ひそあが為(せ)し 故郷となった奈良は近い。山を越えればすぐである。 ほかにも秀歌を残した人は多い。前号で挙げた歌人のほか、調首淡海(つきのおびとおうみ)・秦八千島(はたのやちしま)・田辺福麿(たなべのさきまろ)・文馬養(あやのうまかい)・刀理宣令(とりのせんりょう)・馬国人(うまのくにひと)・長意吉麿(ながのおきまろ)と、枚挙にいとまがない。 元来、倭国に漢字文化を伝播したのは朝鮮移住氏族である。したがって「万葉仮名」の創案も、「万葉集」の形成も、彼らなしには実現しなかったといえよう。 |