心の琴線にふれる「何か」
プルナ2000東京公演「キッ―DNA」
緞帳があがると、けたたましい日本語が行き交う。その緊迫感がFM局らしい場面を引き出す。プロデューサー金民樹のテンポのいいセリフと平壌から来た青年ハン・ブギル(夫龍海)ソウルの女ソ・ナミ(朴錦花)の何やら怪しげな「らしき」言葉。どうやら、テロ事件の後、本物が来られなくなったため、日本で調達したにわか平壌男、にわかソウル女らしい。
2人の在日の役者をいかに本物らしく仕立てあげるのか。これが敏腕プロデューサー金民樹の腕の見せ所であり、それらしく訓練していく過程をドラマチックに描く。悪戦苦闘のドタバタの中に、観客の心を涙で濡らす「何か」があるのだ。 舞台上で繰り広げられたセリフには、私たちの実生活を映し出す日本語混じりの「在日同胞語」や分断半世紀を超えた平壌語やソウル語が混じりあう。それらが1つに結び合う結末は、「統一ウリマルの創造こそ、本国より在日同胞に最も可能性が高い」とする金智石脚本・演出の主題でもある。 m m
愚直さとひたむきさ。劇に通底するのは、この金智石の、ウリマルを何としても守ろうとする情熱であり、「朝鮮語を知らずに育った若い日校出身の役者たち」を一人前に育てようとする気迫である。どうしても「在日」の言葉から抜け出せない舞台上での葛藤や悩み。実はそれはそのまま若い役者たちの等身大の今を活写し、さらに日本で生きる2、3、4世たちの姿を照らし出すのだ。 その金智石の志や狙いを舞台で体現した民樹の演技が光る。2人の役者の朝鮮語を厳しく鍛えながら「特にメッコ(結)プンダ(解)を基本とする呼吸とチャンダンはウリマルに宿る命そのもの」という民樹の熱演に否応なしに引きつけられていった観客は多いのではないか。 実生活においても20歳の夫龍海、AD1の卞怜奈、AD2の宣亜樹は朝鮮語を習って1年にも満たない。舞台上でウリマルを駆使するまでに龍海はトラックを運転しながら「寝てもさめてもテープをつけっ放しにして、上達に励んだ」。「ウリマルができないことをからかわれて、悔し涙を流した」という体験を持つ亜樹と怜奈。3人の不眠不休の努力が舞台上で弾けたかのようだった。若者たちをここまで精進させた金智石の演出を超えた人間そのものへの熱い関わり方は、民族性の堅持を掲げて運動を展開する私たちに大きな示唆を与えてくれる。 m m
仲間の励まし、地域の同胞たちの温かい支え。しかしそれ以上に彼らを燃え上がらせたのは胸の奥底にたぎる「失われた20年、奪われた民族の言葉を自らの手で絶対に取り戻したい」という強い決意そのものであった。実は観客の心の琴線に触れる「何か」とは、これだったのだ。 舞台の最大の山場である「在日同胞のウリマルは、1世のハラボジ、ハルモニの言葉をベースに統一祖国を展望しつつ、南北の言葉を1つにした統一ウリマルにある」というセリフは、直面するさまざまな困難を超えて、すべての在日の若者を希望ある未来へと誘う暗示でもある。 ウリマルを取り戻すまでのはるかな道のり。それは20世紀の朝鮮民族が歩まねばならなかった過酷な時代と重なる。奪われた祖国の解放と自由のためにどれほどの人々が闘い続けたか。言葉を取り戻すということは、すなわち、歴史や文化、民族精神を自分のものにするということでもある。闘いは若者らによって引き継がれることを改めて認識させた舞台でもあった。(朴日粉記者) |