ウリ民族の姓氏−その由来と現在(79)

左京72、右京102の朝鮮系氏族

終章「新撰姓氏録」が語るもの(中)

朴春日


 では、「新選姓氏録」の諸蕃(諸外国人)の項を概観してみよう。

 まず都の平安京(京都市)には、左京に72氏、右京に102氏、計174氏の朝鮮系氏族が居住していた。

 むろん彼らは豪族クラスであるが、その内訳は、漢系83氏、百済系60氏、高句麗系24氏、新羅系4氏、伽耶系3氏である。

 さて漢(あや)系は、その始祖を「秦始皇帝」うんぬんとしている例が多いが、むろんこれは後世の付会であって、その大半は百済系、そして新羅系がまじると見てよいだろう。

 つぎに百済系は、たとえば和朝臣(やまとのあそみ)のように、己の始祖を「百済国都慕王十八世孫・武寧王の後裔なり」と明記した。朝臣は皇別の姓(かばね)。和氏は高野新笠(桓武帝妃)を出して皇別となったわけである。

 百済朝臣は右と同祖だが、「孫恵王の後裔」とあり、石野連(いしのむらじ)は「百済国人近速固王の孫・憶良福留の後裔」とあるから、万葉歌人・山上憶良と同族であろう。

 高句麗系では、高麗朝臣が「高句麗王好台七世孫・延興王の後裔」と名乗り、新羅系は橘守(たちばなのもり)が三宅連(みやけのむらじ)と同祖で、「天日槍(あめのひぼこ)の後裔」だという。天日槍は新羅王子と伝えられる。(「日本書紀」)

 伽耶系は、大市首(おおいちのおびと)が、「任那国人・都怒賀阿羅斯等(つぬがあらしと)の後裔」だと名乗る。この長たらしい名前の始祖は伽耶国の王子で、いまの敦賀に上陸したという(「日本書紀」)。そして「つぬが」から「つるが」という地名が生まれたとも。

 つづいて山城国(京都府南部)の諸蕃・22氏を見ると、漢系9氏、百済系6氏、高句麗系5氏、新羅系1氏、伽耶系1氏である。

 冒頭、目につくのは漢系の秦忌寸(はたのいみき)ら4氏だが、彼らは新羅系と見られる。

 山城の秦氏といえば、まず殖産的大豪族と評された秦河勝(はたのかわかつ)が思い浮かぶ。彼は聖徳太子の側近と伝えられるが、その一族は京都盆地の開拓と農耕・養蚕・繊維・鋳造・木工などの先進技術によって巨富を築き、倭国の財政を左右する「大蔵」を掌握していた。

 やがて秦氏一族は全国的に広がり、九州から東国に至るまで勢力を拡大し、人口数においても古代豪族中、最大の規模を誇ったという。

 百済系は民首(たみのおびと)・勝(かち)ら、高句麗系は黄文連(きぶみのむらじ)・桑原史(くわはらのふひと)らが見える。

 また新羅系は真城史(まきのふひと)、伽耶系は多々良公(たたらのきみ)が記録されている。(パク・チュンイル 歴史評論家)

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