ウリ民族の姓氏−その由来と現在(80)
政治・文化的影響与えた移住氏族
終章「新撰姓氏録」が語るもの(下)
朴春日
つづいて、大和・摂津・河内・和泉諸国の朝鮮系豪族を見よう。
まず大和国(奈良県)は、漢系11氏、百済系6氏、高句麗系6氏、新羅系1氏、伽耶系2氏の計26氏。「倭(やまと)は国のまほろば」と歌われたように、ここは倭国誕生の地であり、多くの宮都が営まれ、古代の有力豪族が根拠地としたところである。(「まほろば」は高く秀でたところの意) 奈良朝末、朝鮮系氏族中の雄族・東漢氏(やまとのあやうじ=百済系)の後裔・坂上苅田麻呂は、光仁天皇に対し、同族の桧前忌寸(ひのくまのいみき)が高市郡の郡司を務めるのは、かつて阿知使主が多くの人民を連れて檜前村に定住したからだとし、「高市郡内には檜前忌寸の一族と十七県の人民が満ちあふれ、他の姓の者は十人に一人か二人しかいない」と述べている。 その檜前村のすぐ隣が明日香村で、飛鳥王朝と飛鳥文化の発祥地となった。 つぎに摂津国(大阪府西北部と兵庫県東南部)は、漢系13氏、百済系9氏、高句麗系3氏、新羅系1氏、伽耶系3氏の計29氏。 百済郡の設置は奈良時代で、百済野・百済川・百済寺などがあった。漢系には檜前忌寸、秦忌寸らがおり、百済系では林史(はやしのふひと)が「百済国人・木貴の後裔」だという。 河内国(大阪府東部)は、漢系35氏、百済系15氏、高句麗系3氏、伽耶系1氏の計54氏である。 河内は、もう1つの雄族・西漢氏(かわちのあやうじ)一族が繁栄したところ。始祖は有名な博士・王仁と伝えられ、漢系の古志連は「文宿祢(ふみのすくね)と同祖。王仁の後裔」と名乗る。 錦織郡には百済郷、交野郡に百済王神社と百済寺が見える。また大県郡と渋川郡の巨麻郷(こまごう)は、高句麗(こま)人ゆかりの地であろう。 和泉国(大阪府南部)は、漢系11氏、百済系8氏、新羅系1氏の計20氏。 奈良時代の名僧・行基大僧正は王仁の後裔で、俗姓を高志氏と称した。彼が建立した寺院は和泉を初め大和・山城・河内・摂津など49院に及ぶ。 百済公(くだらのきみ)と六人部連(むとべのむらじ)は「酒君の後裔」だという。百済郷に住んだ王族の子孫らしい。 最後に、未定雑姓は計38氏だが、その大部分も朝鮮系氏族と見てよい。たとえば左京の百済氏、右京の加羅氏、河内の狛人(こまひと)氏、大賀良氏のように。 このように、古代朝鮮の移住氏族は、倭国の中心地である畿内地方へと進出・定着し、権力の中枢部を掌握しながら、大きな政治的・文化的影響を与えつづけたのである。 (パク・チュンイル 歴史評論家) |