生涯現役
金萬有さん(88)
地域医療に骨身削った日々
小柄な体にみなぎる比類なきエネルギーとパワフルな発想力で、激動の時代を駆け抜けてきた。東京都東部地域の基幹病院でもある西新井病院の創設者・院長、平壌の金萬有病院の名誉院長、さらに金萬有科学振興会理事長…。
米寿を迎えた今年も平壌に出かけ、金萬有病院を視察し、昨年暮れには66年ぶりに故郷・済州島へ。 「来年5月は西新井病院の創立50周年を迎える。年内には付属の高齢者介護施設の竣工も予定しており、ますます忙しくなる」と満面の笑みを浮かべた。自宅の居間に飾ってある完成予想図を見ながら、今からわくわくと待ち遠しい様子。 「負けるものか」 振り返れば、18歳で渡日。受難の20世紀と格闘した力強い足跡。その生き方を人は「怪物のような」とか「猛烈な登攀のような」などと畏敬をこめて語るのだ。 苦闘の人生を共に担った妻の辺玉培さん(78)があるエピソードを披露してくれた。 「9歳の時、島の小学校に入学したのだが、授業が簡単過ぎて、学校が面白くなくなり今でいう登校拒否。それで、すぐ飛び級して2年生に。その頃、クラスのかけっこでビリになって、先生にムチで叩かれたそうです。今でも時々思い出しては『あれは痛かった』と言うんです」 後の波乱含みの人生を暗示させるエピソードではないか。村一番の神童と呼ばれた少年に先生は、愛のムチを施し、生涯その身に痛みと共に「負けるものか」という不屈のチャレンジ精神を刻みつけたのだ。 「小学校を5年で終え、ソウルに出て中学に入学。でもお金がなくて栄養失調になり、化膿性肋膜炎や腸チフスで入院を繰り返した。留年したが、結局またも飛び級で3年で修了した」 17歳。高校に入学したが、血気盛んな金少年は日本の侵略を糾弾する反日ビラを配布して逮捕され、約2年間の獄中生活を強いられる。「さかさに吊し、バケツで水を飲まされる。木刀でぶん殴られる。『貴様ら生かしておくわけにはいかん』と日本人特高警察の拷問は酷かった」。 しかし、ここでも屈せず、耐え抜いた。服役後、故郷に戻るが、政治犯には徹底した尾行がつき、就職も勉学の道も閉ざされた。「ならば」と玄海灘を渡った。 偶然受けた東京医専(現・東京医科大学)に見事合格。教授の講義をメモして、それを学友たちにプリントして配り、学費を稼いだ。学生結婚してからは生活費にも回し、仕送りもない窮状を機転と才気でしのいだ。 本物の「赤ひげ先生」 医師になった後、聴診器を置き、一時愛国運動に熱中したが、53年に西新井病院を創立。以来、地域医療に最善を尽くしてきた。 「地元の銀行員の不治の病を治したことであっという間に評判が広がり、その銀行の理事長が病院建設協賛会長になった。地元の名士や同胞たちも一丸となって、地域で一番大きな病院の出帆を助けてくれた」 病院創立からの看護師で、後に総婦長として金さんを約半世紀も支え続け83歳で退職した佐藤かね子さん(86)は、人間・金萬有の素顔をこう話す。 「今はもう見ることがほとんどない本物の『赤ひげ先生』です。急患が来たら疾風のように駆けつけて一生懸命診る。当直医がいない時代には、1カ月連続で当直もした。往診にも毎日出かけた。人間そのものを大事にし、骨身を削って多くの命を救った。あっという間の50年間だったが、一緒に働けて幸せでした」 77年には2億円の私財を投じて金萬有科学振興会を発足させた。「在日同胞科学者からノーベル賞を」と次代に夢を託す。この25年間、329件の優れた研究実績に対し、総額2億円以上の助成がなされた。 「同胞科学者たちは殻に閉じこまらず、大きくはばたいて欲しい。民族性、つまり個性、伝統、文化、生活風習を大切にして、インターナショナル、地球主義でいこう、と言うことだ」 異国の過酷な状況の中で、「無」から「有」を生み出した金さんの夢は、86年、金日成主席の配慮の下、平壌に東洋一のスケールで総合病院をオープンさせ、大きく花開いた。 終身現役の類まれな情熱と献身の半生。4日、東京都内のホテルで開かれた米寿を祝う会で、梁守政在日本朝鮮人商工連合会長がその歩みを「われわれの宝」だと称えると、会場から惜しみない拍手が送られた。(朴日粉記者) |