李又鳳さんが語る日帝下の暮らし

機織りの名手、朝鮮の女性たち


 幼い時から子守り、畑仕事、機織りや女中奉公に精を出し、嫁いでは厳しい姑の下で野良作業や家事に明け暮れた20世紀初頭の朝鮮の女性たちの暮らし。

 とりわけ、日本の植民地支配と封建的な重圧の下で、朝鮮の女たちの暮らしの過酷さは想像を絶するものがあった。

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 このほど「在日一世が語る」を著した秋田市在住の李又鳳さん(78)は、植民地支配下での庶民、とりわけ女性たちの労働の過酷さについても詳述している。

 とりわけ注目されるのは、機織りについての記述である。機織りは遠い昔から女の仕事だった。女と機織りを結ぶ神話や伝説は、世界各地に残っている。

 李さんは1924年慶尚北道尚州郡に生まれた。両親、2姉5弟の家族だった。尚州は洛東江の中流で、平野も広く、綿や絹織物の盛んな土地だった。

 李さんの鮮明な記憶をひも解こう。「綿の栽培は春から畑までの仕事である。春に畑に綿の種を植える。それが夏から秋にかけて、小学校1、2年生の子供が隠れるくらいに大きくなる。1本の木にたくさんの枝が出て、夏ころに枝に花が咲き、花が終わると小さい実ができる。それがだんだん大きくなって、秋の天気のいい日、暑いような日に一斉に真っ白の実が開く。握り拳ほどの綿がいっぱいつく。それを摘んできて大きなゴザを敷いて、綿の実から種を分ける」

 李さんは18歳の時に秋田県花岡鉱山に強制連行された。この頃、秋田で綿織物を余り見かけなかったという。それもそのはず、日本に綿の種が朝鮮や中国から輸出されるようになったのは15世紀。しかし、寒い東北地方で綿が作られるようになったのは、ずっと後の19世紀の終わり頃だった。

 しかし、朝鮮半島ではすでに女は自分で綿、絹、麻で布を織り、家族全員の衣服やふとんを縫うのが普通で、機織り上手はお嫁入りの資格だったのだ。

 当時のアジアの女たちは織物にする糸はそれぞれの土地でとれる材料を使った。北海道のアイヌの女は樹皮やイラクサの繊維でアツシ織りを、本州などでは主として麻から麻布を、沖縄では糸芭蕉から芭蕉布を織り、それらが長い時代を通じて庶民の衣服だった。

 麻や綿の種を撒くのも、収穫した綿糸や麻糸を家の内の女全員に分配するのも主婦の大切な仕事だった。

 朝鮮のハルモニたちの聞き書きをするとほぼ全員、「麻糸を細かくさき、両端を指先でよってつなぐのを『紵む』というが、6歳くらいから老女までの女のほとんどが、古くから近代にいたるまでの夜毎、眠気をこらえ、根気のいる糸紵みの夜なべをして暮らした」(姜福心さん)と幼い日の労働を鮮やかに覚えている。

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 こうした厳しいが脈々と古代から伝えられてきた暮らしが一変したのが、日本の植民地支配からだった。 日本帝国主義は朝鮮の綿をすべて供出させるため、役人を動員して一軒一軒厳しく監視するようになった。「自分の家で機織りさせないため、家にズカズカ上がりこんでは、機織り機をマサカリで割ったりして壊してしまう。ハンマーで潰してしまう。そうかと思えば、機織りの最中にハサミで糸を切ってしまう。ものすごく怒っていた朝鮮の女たちの姿が昨日のことのように思い出されます」と李さんは語る。

 有名な正倉院の古裂はもともとは古代朝鮮から伝えられたもの。古えの織物の先進国として、朝鮮の女たちは、すばらしい模様を考案し、多彩な織物を作り、忍従の暮らしの中で、文化を創造し、近代にまで脈々と伝えた。

 糸から布にするまでの辛酸な労働と引き換えに、朝鮮の女たちが何代もかけて織物を通して心を癒し、苦しい生活を耐え抜いた暮らしそのものが、日本帝国主義によって壊されたのだ。

 李さんは植民地時代、幼い日にそのことを目撃したのだった。綿を栽培し、糸を紡いで、布を織る、こうした機織り労働を担ってきた朝鮮の女性たちが、近年、次から次へと世を去っていくのは悲しく、残念なことである。(朴日粉記者)

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