東アジア史の視点から-2-
鄭夢周と足利義満
不信の霧の中で信を探る
全浩天
14世紀の中頃から西日本、北部九州の倭寇と呼ばれる海賊集団が朝鮮半島と中国大陸の沿岸部を襲い、人間の拉致・連行、食糧や財貨の略奪、婦女子への暴行、殺人、放火をほしいままに行った。日本の沿岸から出撃する倭寇は、十数隻の船団から500隻の大船団を組んで朝鮮各地を襲撃し、ますます狂暴化していった、1350年から本格的に始まる、この目を覆わしめる恐るべき惨劇のピークは1370年代から80年代にかけての時期である。 高麗政府は足利政権に対して何度も使者を派遣し、倭寇の鎮圧と取り締まりを要請したが、内乱にあえぐ足利政権には高麗政府の要請にこたえる力はなかった。こうした閉ざされた状況の中で鄭夢周は対日交渉にのりだし、倭寇の鎮圧と取り締まり、拉致された朝鮮人、奴隷として売られた朝鮮人婦女子の故国への帰還を足利義満に求めたのであった。この時、鄭夢周40歳、足利義満19歳であった。
足利義満が日本の内乱を収め、京都室町の幕府政権を強力にしたのは鄭夢周と会い、倭寇の取り締まりを約束した翌年のことである。足利幕府は西国大名の今川氏や大内氏とともに倭寇の取り締まりを強化し、高麗王朝とその後を継いだ朝鮮王朝との友好親善の関係を強化した。高麗王朝の忠臣・鄭夢周を暗殺し、朝鮮を建国した朝鮮王朝は軍備を拡張し、水軍を強化して倭寇の鎮圧につとめた。こうした両国政府の倭寇鎮圧と取り締まりの努力は、1404年の両国の国交となって実を結んだ。こうした状況のなかで倭寇の力は急速に衰え、その襲撃は中国沿岸に向かっていった。 倭寇による朝鮮襲撃と略奪が鎮静化しているとき思いもかけぬ事件が起きあがり、両国関係が一挙に崩れるような事態が発生した。1419年6月、朝鮮水軍は、倭寇の根拠地である対馬の浅芽湾を攻撃した。対馬の倭寇が中国の遼東半島を攻撃した時、西海(黄海)の朝鮮沿岸をも襲ったからである。朝鮮水軍が倭寇の鎮圧根絶のために対馬の基地を攻撃したのであった。これを己亥東征という。 朝鮮水軍の対馬攻撃は室町幕府に強烈な衝撃を与えた。倭寇鎮圧は理解できたとしてもこの時期、なぜ攻撃するのか。朝鮮側の真の目的は何か、何を意図しているのか。そればかりか「朝鮮が攻めてくる」「対馬が取られた」「九州で合戦が始まった」「婦女子が拉致された」などの謀略まがいの怪情報、不安、不信や恐怖をあおる悪質なデマ、中傷が京都の町に渦巻いた。 足利政権は1419年、朝鮮側の真の目的、考えを知るために無涯亮倪を特使として派遣した。朝鮮政府は日本側の使者が帰国するとき回礼使として宋希mを同行させ、京都に送った。四代将軍足利義持と四代国王世宗との間に国書が交わされ、両国の交わりを深くする友好が確認された。両国政府の努力によって朝鮮側の対馬攻撃は倭寇の鎮圧、海賊行為の根絶であってほかのなにものでもないことが明らかになった。 倭寇による惨害や己亥東征の事件をめぐる歴史の教訓は何を語るのだろうか。朝鮮日本関係が危険で複雑な状況におちいったとき、特に国際的な攻撃・暴力や組織的な陰謀、謀略まがいの情報が錯綜する状況のとき何が重要な行動なのであろうか。それは理性的な努力と決断、閉ざされた状況を切り開く強力なリーダーシップである。国家政府が状況を洞察し、まずは「交隣は国の宝なり」に従って国交を開く具体的な努力を重ね、重なる難問を解決すべきであろう。(歴史学者) |