「有事」の狙い―識者と考える (7)

強者がおごる社会許してはならぬ

斎藤貴男さんと「機会不平等」


 さいとう・たかお 1958年、東京生まれ。早稲田大学卒。英国バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)。新聞、雑誌記者を経て独立。著書に「評伝・梶原一騎」「プライバシー・クライシス」「精神の瓦礫」など多数。
 歯に衣着せぬ物言いで、傲慢な権力者、財界人たちをバッサリ切り捨てる。代表作「機会不平等」には、強者がおごり高ぶる空気を容赦しない骨太の反骨精神と媚びないジャーナリスト魂が脈打つ。その言葉の裏側には、名もなき貧しい人々、額に汗して働く庶民、そして、屑鉄を積んだリヤカーを引きながら、息子を大学まで出してくれた亡き父への熱い感謝と尊敬の心が溢れている。

 「理想のジャーナリスト像からすると、僕は2軍の補欠のような存在だと思う。新卒で偶然受かった保守系メディアに入社したものの、3年で辞めた。デスクに呼び捨てにされたり、やりたくもない仕事を命じられただけで頭にきた。大きな組織に所属していること自体が嫌なのだと気づくまでに、それほどの時間はかからなかった」

 この独立独歩の心意気が、フリーの仕事を支える気骨となった。時代は逆風の嵐が吹き始めた90年代。金持ち優遇、新自由主義の暴論が台頭。戦後日本の骨格を根本から覆す日米新ガイドライン、国旗・国歌法、盗聴法、住民基本台帳ネット法などの国家主義的な政治の潮流が社会を席巻し始めた。大新聞などのマスメディア、言論人などは批判の牙を抜かれ、今ではまるで翼賛体制ができあがったかのような状態である。

 「それが私にとってはブラックユーモア風に言うと追い風だったかも。取材先で彼らと同じことを聞いても、彼らは記事にしない。私は記事にする。だから目立つ。困った風潮ですよ」

 大新聞の記者が書かないで、斎藤さんが告発した恐るべき事態。無数にある中から典型的な例を2、3あげてみよう。

 「ゆとり教育」について、教育課程審議会長だった作家の三浦朱門氏に「新学習要領で授業内容は3割減る。学力低下を招かないか」と尋ねた斎藤さんに三浦氏はこう言い放った。

 「戦後はできんやつのために手間と暇をかけすぎた。できん者はできんままで結構。落ちこぼれにかけすぎた手間をこれからは有能なエリート候補に振り向ける。彼らが日本を引っ張ってくれる。無才、非才には、ただ実直な精神だけを養ってもらえばいいんだ」

 斎藤さんは強い衝撃を受けた。「エリートにならない奴に勉強などされても無駄だと彼は言ったのだ。『ゆとり』と言ったのは、世間の抵抗が大きいので回りくどく言っただけだったと私に説明した」。鼻持ちならないエリート意識、他人を雲の上から見下ろして小馬鹿にする傲慢ぶりである。三浦氏の話は、オフレコで語られたのではない。しかし、怒りを持って記事にしたのは斎藤さんだけである。

 もう1つ。ノーベル物理学賞を受けた江崎玲於奈・教育改革国民会議座長の話。「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」

 背筋が凍るような構想ではないか。江崎氏はIQテストのような曖昧さが排除され、純粋に知能(メリット)だけを客観的かつ完璧に判定されてエリート教育を施された子供たちが将来指導的な地位に立てばいいとでも思っているのだろうか。斎藤さんは社会をすべて優勝劣敗で仕分ける優性学思想が、日本の指導者層に浸透しつつある現状に強い危機感を抱く。ナチズムの記憶と共に封印されていた思想が息を吹き返せば、あのナチスのユダヤ人虐殺や障害者の 「安楽死」計画を実行した悪夢は、もはや過去のものではなくなるのだから。

 今、斎藤さんが雑誌「世界」で健筆を振るっているのが、「空疎な小皇帝―石原慎太郎という問題」。「3国人」発言や極右のルペン氏やハイダー氏もあえて口にできぬ「DNA発言」で人種・民族差別を扇動する石原の正体を暴く力作だ。先日の「北朝鮮と戦争してでも…」(ニューズウィーク誌)という暴言にも、日本のメディアの反応は鈍かった。「マッチョを気取っても、自分だけを安全圏に置いて、他人を駒のように戦地に送り込もうとするのが彼の本質。こんな人たちに、国民総背番号制や有事法制、戦争への道を委ねてはならないことをそろそろ、私たちは気づくべきだ」。(朴日粉記者)

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