朝鮮と日本、心通じ合う関係に
ピースボートクルーズに参加して 文彰浩
去る8月15日から30日にかけて「ピースボート第38回クルーズ」に参加した。ピースボートとは、毎回500人前後の参加者で世界各国を巡る船旅を主催しているNGO団体で、民間交流を通じての国際理解、国際協力の促進を目的としている。
今回の船旅は、南北朝鮮、サハリン、そして現在もなお、日ロ間でその領有権を巡って論争となっている「北方四島」のひとつ、国後島を訪問するという行程だった。 これらの訪問地の中でも、最も参加者の関心を集めたのは朝鮮訪問だった。そういった船旅の性格上、朝青、留学同などから私を含む6人が同行スタッフとして加わることになった。 共同農場見学 8月15日に神戸港を出港し、17日に共和国の元山港に入った。バスは一路、平壌のホテルに向かったが、初めて朝鮮を訪れる人が参加者の大半を占めていたため、車窓から見える人々の表情、農村の風景などを物珍しそうに見入っていた。 平壌のホテルに着くと、朝鮮側の受け入れ団体である対外文化連絡協会(対文協)日本局主催の歓迎宴が催された。初めて口にする朝鮮の料理と酒を味わいながら楽しい時を過ごしていたようだ。 朝鮮には3泊4日の滞在だったが、平壌市内観光のほか、板門店訪問、そして参加者それぞれの関心に合わせて、「平壌の一般家庭へのホームステイ」や「平壌外語大の学生たちとの交流会」などコース別のプログラムも設けられた。 板門店では、朝鮮戦争の発生から停戦までの歴史や、1976年の「板門店ポプラ事件」の説明を受けた後、非武装地帯に入った。日本人には映画『JSA』でお馴染みの板門店。朝鮮半島が戦後半世紀以上経った今でも分断状態にあるという厳しい現実を実感出来たのではないだろうか。 コース別プログラムでは「協同農場見学コース」に参加した。相次ぐ自然災害で多大な被害を受けた朝鮮農業の実態に関心を持つ人々が多数参加し、農場員に農業の実情や、農民の暮らしなどについてさまざまな質問をぶつけていた。農場を去るとき、参加者の1人が手作りの荷車と、作物に水や農薬を撒く噴霧器を寄贈する場面も見られた。 元山港で涙の別れ コース別プログラムの後には、平壌の人民文化宮殿で、ピースボート参加者と、同時期に朝鮮を訪れていた留学同祖国訪問団のメンバーが、「テーマ別交流会」と題して「歴史教科書問題」、「朝鮮半島の統一問題」、「朝・日映画交流」などのテーマ別に朝鮮の専門家や市民と意見交換する時間がもたれた。 「歴史教科書問題」についての交流会では元「従軍慰安婦」の方や、強制連行・労働被害者の方、朝鮮の歴史研究者が参加し、自身の戦争被害体験についての証言や、朝鮮における近代史研究の成果を踏まえながら、「歴史教科書」問題をはじめとする最近の日本の歴史わい曲、隠ぺいの動きについて厳しく追及する発言がなされた。 一方、ピースボート参加者からは「新しい歴史教科書」を採択する学校が全体の0.1%にも満たない状況などを例に挙げながら、歴史わい曲問題に対して日本人のなかにもそれを許さない人々が大勢いる、そういった日本人の運動にも理解を深めて欲しいなどといった発言がでるなど、実のある意見交換が行われた。 朝鮮でのすべての日程を終え、いよいよ元山を出港するとき、参加者たち、とくに大学生を中心とする若者たちが一斉に甲板に躍り出て、埠頭に見送りにでた対文協の案内員や物珍しさで港に集まってきた子どもたちに、ある人は涙を流しながら、元山の街が見えなくなるまで手をふっていたのは印象的だった。 その光景を見ながら、朝鮮でのさまざまな人々との交流を通じて、参加者一人ひとりのなかにあった朝鮮に対する偏見や素朴な誤解が少しずつ解けていくのを実感した。それが隣国、そして隣人に対する信頼に変わりうる可能性に気づかされた。 南の地にいる実感 元山を出た船はまっすぐに南下し、釜山を目指した。国籍が「朝鮮表示」の私たちも何とかピースボート参加者の一員として釜山上陸を果たすことが出来た。初めて訪れる南の地だったが、人と車が大勢往来する大都会・釜山はなんだか日本の街と似ているようで、最初はある種の戸惑いを覚えた。 だが、その日の夕方、釜山市内の「民主公園」(釜山地域の民主化運動を顕彰して造営された公園)で行われた「ピースフェスティバル」(ピースボートと寄港地の人々との文化交流会)に参加し、その場にいた民主化運動に携わってきた人や、統一運動に身を投じている人に会ったときに、自分たちが南の地にいるのだという実感が湧いてきた。と同時に、その歴史的な重みについて多くを考えさせられた。 釜山を離れた後は、サハリン、国後を1泊ずつ訪れ、東京に帰ってきた。移動中の船内では実にユニークで多様な内容の勉強会や企画が行われ、退屈することはなかった。私たち6人も、5回にわたり「コリア文化連続講座」を船内で企画し、朝鮮の歴史、言葉、舞踊を教える中で参加者との交流を深めた。 今回の旅を通じて、朝鮮と日本が心の通いあう関係になるために、参加者一人ひとりが欠かすことの出来ない役割を担っていることを感じさせられた。 |