東アジア史の視点から-3-

渤海国と対日関係

「海東の盛国」と日本結ぶ太い絆

全浩天


咸鏡南道北青郡で発掘された南京南海府の青海土城跡
 渤海国から最初の使者が来着したのは高斉徳ら8人で出羽の国、現在の秋田県北部であった。727年10月4日のことである。この知らせを聞いた聖武天皇は使者を派遣し、衣服を贈り、丁重に遠路を慰めた。渤海使一行は奈良の都に入り、渤海国第二代の王・大武芸の国書と渤海の特産物を聖武天皇に捧げた。天皇は渤海国が天智天皇の時代である668年の10月に唐の攻撃を受けて滅亡した高句麗を継承した国であることを認識していた。天皇は、渤海使一行のために位を授け、宴会を開いて雅楽を演奏させ、射術の大会を催すなどしてもてなした。

 渤海国王から日本天皇にあてた書状は、隣国である渤海国が698年「旧高句麗の土地を回復し、扶余の古い風俗を保っています。しかし貴国とは遠くに隔たり、間には広々と海や川が広がり、音信は通わず慶弔をたずねることもありません。これからは互いに親しく助け合い、歴史が望むようにしたいと願い、使者を通わせ睦まじく隣国としての交わりを今日から始めたい」とのべている。

 これに対する聖武天皇の返書は728年5月16日に渤海使に渡された。天皇は「王からの書状を読み、王が旧領土を回復し、昔日のように修好を望んでいることが分かりました。私はこれを喜ぶものです。王は君臣の道が示すように仁慈の心で国内を取り締まり導き、愛によって育まれ、これからは遠く海によってへだてられようとも我が国との尽きせぬ往来を計られることを願う」とのべている。

 こうして天皇は書状と共に渤海王への贈り物を帰国する渤海使に託した。また、聖武天皇は渤海使を送り、書状と贈り物を届ける日本側の使者として引田朝臣虫麻呂を任命し、その年の6月に渤海使と一緒に渤海国に派遣した。

 ところで実際、日本に派遣された渤海使一行は使節の高仁義をはじめとして総勢24人であった。しかし、来着した一行は東北地方の出羽の国に勢力を張る蝦夷に襲われ、殺害を免れて奈良の都に入ったのは高斉徳ら8人であった。この時、高斉徳が渤海の国書とともにお土産として持参してきたのは渤海の特産品としての貂の毛皮300枚であった。ところがこの貂の毛皮が貴族の最新のファッションとなり、その流行は驚くべきすさまじさで平安時代の貴族社会に広がった。日本最古の「竹取物語」にも貂の毛皮の話が出てくる。持参してきた当の渤海使も思いもしなかったことであろう。貂は猫のような小動物で敏捷であるが、その毛皮は珍重された。今日でも高価な高級毛皮として羨望を集めているのが貂である。渤海使のためのパーティーや舞踏会などの華やかな宮廷外交、文人の詩文の交歓会には貴族、貴婦人たちは貂の毛皮を着て美を競った。

 貂などの毛皮を交易品とする渤海使の来日は34回で奈良時代の727年から平安時代の919年までの善隣関係の時代であった。この間、日本からの遺渤海使は15回におよぶ。日本と192年間にわたって善隣関係を結んだ渤海国は「海東の盛国」と呼ばれたほど繁栄したが、その実態はよく解らずナゾの国とされてきた。東海(日本海)を渡る渤海使の港や航路すらもはっきりしなかった。

 ところが最近の考古学上の成果はめざましくナゾの部分は次第に明らかにされ、確定されたものも再検討を余儀なくされている。渤海使のために建造された「能登号」は能登半島の深浦から出港して「吐号浦」に向かうが、それがどこか解らない。数年前、吐号浦は朝鮮咸鏡南道の新昌港であったことが証明され、渤海の五京の1つ南京南海府が咸鏡南道北青郡荷湖里にあり、その都城である青海土城が発掘された。さらに咸鏡南道の新浦市琴湖地区には高句麗の伝統的な寺院様式である1つの塔を中心に3つの金堂が配置される「一塔三金堂様式」をもつ梧梅里廃寺跡が発見された。そればかりか咸鏡北道清津市の富居里一帯に対する発掘調査は驚くべき問題を突きつけている。これまでの渤海最大の王墓を超える最大規模の墳墓であるヨンチャコル一号墳と大墳墓群や城跡が発見された。このため渤海五京の1つである東京龍原府は清津であろうと言う。今、渤海像は変わりつつある。(考古学研究者)

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