故郷の地で ・朝鮮学校 初の南公演・(上)
歴史、思いそして今等身大の姿伝える
異国の地で民族教育を守り、発展させてきた在日同胞の生き様を南の市民に伝えることになった在日朝鮮学生少年芸術団の公演。その意義について考える。
映像、パンフで紹介
チマ・チョゴリを着た女生徒8人が出演する重唱「未来を抱いて生きよう」。軽やかなメロディーに美しい歌声が響くなか、舞台の中央では朝鮮学校の過去と今を紹介する映像が流れた。 解放後、雨後の竹の子のように続々と開設された国語講習所の一場面。雨が漏り、すき間風がほおを打つ教室で、小さな瞳が黒板に書かれたウリマル(朝鮮語)を必死に追いかける。 スクラムを組んで学校の閉鎖を迫る警官をはねのける姿や、自ら新校舎建設に汗する1世。時折流れるズームアップされた表情が血と汗で守った歴史を物語る。そして、映像は半世紀の時空を越え現在の朝鮮学校へ。子どもたちの屈託のない笑みと目の輝きは変わらない。
公演の会場では朝鮮学校を紹介するパンフレットも販売された。公演推進委員会(委員長=金相賢・韓国青少年サラン会理事長、国会議員)が作成したもので、1000ウォン(日本円で約100円)。32ページからなるカラー刷りのパンフには、芸術団団長を務めた東京朝鮮中高級学校の具大石校長のあいさつや、金相賢理事長、MBC(韓国文化放送)の金重培社長の歓迎の言葉。ページの最後には民族教育の年表と朝鮮学校の歴史がつづられた。 「…感激と喜びで解放を迎えた在日同胞は、奪われたウリマルを教えるため、日本各地に国語講習所を開設。在日同胞の民族教育は在日朝鮮人連盟の結成を契機に発展、総聯の結成は民族教育事業の大きな転換点だった。…総聯は民族教育の内容を決め、教科書も作り、教員も養成。初級、中級、高級学校から大学に至る教育システムを完備。57年以降に北が送った教育援助費と奨学金は民族教育事業の大きな財政基盤となった…」(パンフレット)。 共同宣言が生む 「長い分断の歳月のなかで日本にいる総聯の同胞と私たちは互いに忘れられた存在でした」 芸術団が故郷の地を踏んだ2日、晩さんの席を設けた劉仁鍾ソウル市教育監(日本の教育委員会にあたる)が語ったように、朝鮮学校と南の社会は長い間、隔絶されていた。朝鮮学校の生徒たちが南で堂々と公演することは、北と南があからさまに敵対していた時代には想像すら出来なかったことだ。 公演で流れた映像やパンフレット、何よりウリマルを話し、チャンダン(朝鮮のリズム)に合わせて踊り、歌い、楽器を奏でる子どもたちの姿は民族教育の歴史と「今」をリアルに伝えた。
芸術団の公演は、南の社会に「等身大」「ありのまま」の朝鮮学校が伝わった歴史的な出来事だった。 この変化は、6.15北南共同宣言によって生まれたといえよう。民族同士力を合わせて統一することを誓った共同宣言は、多くの人の胸にあった分断の壁を崩したが、朝鮮学校を訪れる南の同胞が増え続けているのもその一例だ。 今回の公演を主管、共演したソウル国楽芸術高等学校の芸術部長、宋善元さん(47)は昨年、都内で行われた民族楽器重奏団「ミナク」の公演で東京朝高民族器楽部の演奏を初めて聴いた。「レベルの高さに驚いた。芸術専門校でもないのに」。 数日後に生徒を連れ、東京朝高を見学。「教え子との交流を実現させたい」。期待に胸が膨んだ。 「朝鮮時代までは民俗音楽を伝統文化とみなす認識が足りず、日帝時代は民族文化の抹殺政策により民族芸術が民衆から遊離、解放後は西欧文化の流入により、五千年間引き継がれた伝統芸術の正統性が大きくき損された…」(「ソウル国楽芸術高等学校40年史」から)。 民族文化の受難の歴史を踏まえ、学校教育を通じて伝統文化を継承しようと60年に創立されたソウル芸高。植民地支配を受け、いまだ差別が残る日本で、それも3、4、5世にまで民族文化を体系的に教える朝鮮学校の教育には大きな感銘を受けた、と同校の教員は口をそろえる。全州で共演した全州芸術高等学校の教員も同様だった。 宋さんのように南の社会で民族文化の保持・発展に努めた人々、また統一、民主化をめざす人たちが公演推進委員会を結成し、芸術団を迎え入れた。(張慧純記者) |